2011年8月12日金曜日

相手の立場にたつということ



「相手のことをいつも思いやっていると、それがだんだん広がってくるのです。集団として心が育つのですね。すると、もっともっと、その人のいいところが見えてきて、それがまた隣の人へ、さらに隣へと伝わり、それがやがて大きなエネルギーとなり、“音”になるのです」指揮者コバケンのことばである。

<https://twitter.com/nomurakn/status/101871910593380352>

小林 研一郎 指揮者
月刊WEDGE 200712月号120-121

驚くべし、ジブリの鈴木さんもこんなことを言っている。

「いろんな人が集まって一つのものを成功させる最大の秘訣は、自分の立場を忘れることだと思っているんです」
鈴木 敏夫 映画プロデューサー
JAL Skyward 20093月号114-115

以上はまたまたNPO会員専用データベースLeadership Theory in Practiceからの再引用である。 このデータベースは、リーダーシップの養成に役立つと思われる実践知を集めようという試みである。ともかく法学の片手間にやっているだけだが、「集める→関係づける→ときどきまとめる」作業を続けていけば何か見えてくるかも。

最後はブログからの再引用。関係づけができてきただろうか。

「前原外務大臣は外国人政治献金問題で、「私心を捨てて」辞任した。私心を捨てて公務にあたれ"Obliti Privatorum - Publica Curata"。ラテン語でクロアチアのドゥブロヴニク旧総督府の碑文にある(下の写真参照)。15世紀頃に広まった政治家の「理想」を表す標語らしい。

鳩山邦夫総務大臣とのバトルで有名になった日本郵政の西川善文前社長にリーダーシップで一番重要なことは何かときいたら、迷わず「私心を捨てること」だと答えた。氏は大銀行の頭取を8年間も務め、日本郵政社長としても鳩山大臣が辞任させられたのに自分は踏みとどまった。私心を捨てることは西川流の打たれ強さやしぶとさの源泉であるようだ。

私心を捨てることは信頼されるリーダーの評価基準になるのではないか。たとえば、民主党政権の鳩山由紀夫前首相や菅直人首相は私心を捨てているように見えるだろうか。」
「私心を捨てるということ-Obliti Privatorum
Nomuraknブログ2011310日木曜日
http://nomurakn.blogspot.com/2011/03/obliti-privatorum.html

あなたは独りぼっちではない


「感情をより多くの人々に伝え、日常と異なる時空の休息を与え、『あなたは独りぼっちではない』と励ますため職能のすべてをささげる社会的責任」を強く意識するようになった。」昔データベースに引用したクリスチャン・ツィメルマンのことば。優れたプロの修練に裏付けられたことばは普遍的だ。

Leadership Theory in Practiceデータベースの成果第2号である。アートとアーティストの力として淡路島の若者に紹介しよう。

クリスチャン・ツィメルマン ピアニスト
日本経済新聞 2008112日(日)25

場を与えれば成長する


「今の若者はコミュニケーション能力が低いという。でも僕の実感では、引き出す機会に恵まれていないだけだ。実際撮影現場で学生はみるみる成長した。力を引き出す場を与えることが必要だ。」これは映画監督の山田洋次さんのことば。畑違いの大学教員がまったく同じことを感じているのはなぜだろうか。

このことばは、淡路島で若者に話をするための素材を探していたら、NPO会員専用のLeadership Theory in Practiceデータベースで再発見したものだ。データベース作っていてよかった。

引用は下記。

山田洋次 映画監督
日本経済新聞2010915日(水)夕刊文化 18

2011年8月3日水曜日

他力の教えと自力のブッダ

親鸞の他力本願は、悪業煩悩の身でも阿弥陀仏に「たすけたまえ」と心から唱えれば助けてくださると考える。「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの教え(スッタニパータ)とは遠く離れている。「何も存在しないと思うことによって煩悩の激流を渡れ」といえるブッダはやはり意志が強かったのだ。

他力本願は、自分の修行の多寡ではなく南無阿弥陀仏と唱えて衆生を浄土に導こうという阿弥陀仏の願いの力を頼むことによって極楽浄土に行けるという意味である。浄土真宗の開祖親鸞(1173-1262)の解説は後で引用するが、さすがにことばが難しい。
少し近代の蓮如[1](14151499)は、門徒ならだれでも知っている「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり[2]」など、わかりやすい。蓮如は、中国の善導[3]による「南無阿弥陀仏」の解釈を解説しながら、つぎのように述べている。

「たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。[4]

「犀の角のようにただ独り歩め」、「何も存在しないと思うことによって煩悩の激流を渡れ」というブッダのことばは、中村元訳『ブッダのことば――スッタニパータ――』  からの引用である[5]。中村訳は本当に分かりやすい。訳者の人格がにじみ出ているようだ。たとえば、

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。[6]

色即是空、空即是色という『般若心経』の源流がここにあるようだ。ブッダは「妄執を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)がある[7]」という。般若心経はつぎのようにいう。

「それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、おそれがなく、顚倒した心を遠く離れて、永遠の平安(ニルヴァーナ)に入っているのである。[8]
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃[9]

ブッダは、つねによく気をつけ執着心を捨てて世界を空と観れば、この世で涅槃が得られると考えた。これに対して、ブッダから千年以上たって、親鸞は、念仏により死ねば浄土に生まれ変われると説いた。親鸞は、その方法を『教行信証』でつぎのように解説している。

67】『選択本願念仏集』 源空[10]集 にいはく、
「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」と。

68】またいはく(同)、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと[以上185頁]欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。以上

  【69】あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大  宝海に帰して念仏成仏すべし[11]。[以上186頁]

以上


[1] 本願寺第八代宗主。
[2] 蓮如上人御文(御文章)五帖の十六。御文章、『浄土真宗聖典(註釈版)』http://www.terakoya.com/seiten/chushaku.html
[3] 善導(613-681)は、中国浄土教の大成者。親鸞(1173-1262)の『教行信証』では、光明寺の和尚と呼ばれている。
[4] 蓮如上人御文(御文章)前掲注(2)、五帖の十三。学問的には、「大正新脩大藏經テキストデータベース」というすごいものがある。http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/.
[5] 中村元訳『ブッダのことば――スッタニパータ――』 ワイド版岩波文庫、1991年、17頁以下「第1蛇の章」「3 犀の角」および224頁以下「第5 彼岸に至る道の章」 「7 学生ウパシーヴァの質問」。
[6] ブッダのことば前掲注(5)236頁、「第5 彼岸に至る道の章」 「16 学生モーガラージャの質問」。
[7] ブッダのことば前掲注(5)234 14 学生ウダヤの質問」。
[8] 中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』ワイド版岩波文庫13頁、2001年。
[9] 般若波羅蜜多心經 (No. 0251 玄奘譯 )、「大正新脩大藏經テキストデータベース」http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/.
[10] 源空(1133-1212)とは、法然房源空、すなわち浄土宗の開祖である法然上人である。
[11] 『浄土真宗聖典(註釈版)』「顕浄土真実教行証文類」行文類二、185-186頁。http://www.terakoya.com/seiten/chushaku.html. 「大正新脩大藏經テキストデータベース」、「顯淨土眞實教行證文類 (No. 2646 親鸞撰 )」には原文の漢文で収録されている。http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/.