2010年7月29日木曜日

東洋的思惟と西欧的思惟の対決

東洋的な思惟方法と西欧的な思惟方法は異なるのだろうか。紀元前2世紀頃に成立したと考えられる仏教書(注1)は、東洋的な思惟と西欧的な思惟がディベート(討論)によって対決し、最後に仏教が勝利する様子が見事に描かれている。

ギリシャ人の王ミリンダは議論に強いことで有名であった。高名な仏教の修行者に論争を挑んではやり込めてしまい、「インドには大した人物がいない。インドは空っぽである」とうそぶく始末であった。ミリンダ王が「だれかおらんのか」というのでナーガセーナが紹介されるのだが、ここでも「理由や原因や方法によってわたしを納得させよ」と迫る。ミリンダ王はナーガセーナとの長いディベートを経て最後に納得し、仏教に帰依するという話である。

2人とも実在の人物のようであるが、このディベートが実際に行われたかどうかはわからない。しかし、インドの高僧がミリンダ王に突っ込まれたら黙ってしまったり、仏教も権威ではなく理由や原因や方法によって納得させないと信じないというミリンダ王の態度からは、現代の日本人も学ぶところが多い。特に、「議論が仕事の人に議論のスキルがないのは職務怠慢だ」(注2)と言われている日本の政治家やジャーナリストなどは、2000年の遅れを取り戻すために修行を積んで欲しい。

(注1)中村元・早島鏡正訳『ミリンダ王の問い(1)~(3)』(平凡社、1963年、1964年)。特に1巻76頁以下および3巻94頁以下参照。
(注2)福澤一吉『議論のルール』(NHKブックス、2010年)参照。14-24頁を読めば、大学の先生より爆笑問題の方が議論のレベルが高いことがわかる。職務怠慢である。

2010年7月19日月曜日

紛争、交渉、討論、対話、議論

定義とは、概念を他の概念と区別する要素を明らかにすることである。20010521Twitterに、定義は概念を持ち運び可能にすると書いた。交渉、対話、ディベート(討論)および議論という概念は、民主主義の実践になくてはならないものである。以下ではこれらの重要な概念を持ち歩いて意識的に用いることができるように、実践的な定義を提案したい。


(1)紛争とは、

 ①利益や価値に関する対立であって(利害対立

 ②一方からの要求が他方に拒絶された(主張対立)ものである

(2)交渉とは、

 当事者間に利害対立がある場合に、合意または共同の決定に到達するための、伝え合い(コミュニケーション)のプロセスである

(3)ディベート(討論)とは、

 特定の命題について、肯定側と否定側(利害対立・主張対立)が理由を伝え合い(コミュニケーション)議論の優劣を競うプロセスである

(4)対話とは、

 意見や利害を異にする人同士(相違)が、お互いの変容を受容しつつ行なう、伝え合い(コミュニケーション)プロセスである。


5)議論とは、

理由を示して結論を述べることである。

例1 人間はみんな死ぬもんや。あんたも人間やないか。そやからあんたも死ぬんやで。 

例1は、まずみんなが受け入れられる一般的法則など(人は死ぬ)を正当化の論拠に持ち出し、つぎにそこに目の前の事実(あなたも人だ)を根拠としてあてはめて、最後に結論(あなたも死ぬ)を導き出す議論の形である。三段論法と呼ばれる。


 説得的な議論は、一般的な論拠と事実的な根拠に支えられた主張(結論)からなる(図2参照)。



以上の(1)および(2)から、紛争がなくても当事者間で利害対立があれば利害調整のために交渉が利用できることがわかる。(5)の定義によれば、議論がなくても交渉はできるが、議論はディベートでは不可欠なことがわかる。
もちろん、理由を示した主張(議論)がない交渉は生産的ではないし、交渉で説得的な議論をしようとすれば、目の前の事実を根拠にあげるだけではなく、できるだけ一般的な法則や基準を論拠に持ち出す必要がある。
交渉と(3)のディベートとは親近性が高いが、ディベートと(4)の対話とは共通点が少ない。しかし、ディベートと対話の間には、こちらと相手に相違があることおよび相互の伝え合い(コミュニケーション)であることという共通の要素がある(図1参照)。
 最後に、交渉、ディベートおよび対話は、現実に相手がいることが重要である。もちろん想定問答のようなディベート架空の相手との対話はありうる。しかし(5)の議論は、本の中の議論のように、現実の相手がいなくても成立する。もっとも本も読者を説得するために議論しているともいえるが、議論の重点は自分の主張を述べるところにあり、相手との相違や伝え合いは不可欠の要素とはいえないのである。
 以上については、次の論文を参照。 
野村美明「紛争解決過程における交渉概念と討論・議論・対話の概念」『仲裁とADR216-29(2007)



図1



図2




2010年7月12日月曜日

わかりやすく伝えるために

大学のゼミ生に対するアドバイスを修正して掲載します。
Ver.2010/07/12


前回秘密保持契約の使い方について話して下さったS社長によれば、みなさんの質問力は社会人34年生より高いそうです。確かに進歩しました。しかし、他人にわかりやすく説明することはへたくそです。それは、「わかりやすく」とはどういうことかがわかっていないことです。秘密保持契約の勉強会でも電子書籍(Kindle)取引交渉のフォーマットに関する話し合いでもそう思いました。
みなさんだけではなく、政治家も公務員も、日本で育って教育を受けている人はみんなわかりやすく説明することが苦手です。なぜなら、みんな日本人なら、人間ならわかりあえるはずだという幸せなおそろしい前提を信じているからです(なぜおそろしいのか考えてみてください)。よく日米交渉がうまくいかなくなると、特使を派遣して「米国の理解を求める」ことが行われました。しかし、理解を求める(to seek understanding)ということばにはわからせようという意思が感じられませんし、理解してもらえば同意してもらえるという甘えがあります。
どの時代のどの階層の日本人が簡単に分かり合えたのかは分かりません。しかし、もし日本社会が多様化しているならば、「わかりあえるはずだ」という前提は通じないはずです。この前提で説明すると、重要な部分を伝えなかったり、相手に甘えて説明も甘くなりがちです。ではどうすればよいのでしょう。それは、相手は今までの成り行きをなにも知らない第三者だと思って説明することです。みなさんも、教師に「前回の授業で説明したじゃないか」といわれて困った覚えがあるでしょう。
同じ学生でも理解力も記憶力も違うのですから、いちばん分かっていない人でも分かるように説明する、これがわかりやすく説明するということです。わたしが「読んでもらえるメール」として、「それだけ読んだらわかるよう一目瞭然に書く。前のメールで書きましたようにとは書かない。」というのと同じです。口頭による説明は、聞いている人に具体的なイメージがわくように、頭の中に「絵」や話の流れが浮かぶようにする。無理なら、ホワイトボードにそのようなイメージや図を書いてみることです。もちろん、お互いの意見が理解できてからでないと、交渉もディベートも成立しないことはいうまでもありません。
最後に、演劇家の平田オリザ(大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授)の言葉を引用しておきます。
「二一世紀のコミュニケーション」は、「私とあなたは違うということ。私とあなたは違う言葉を話しているということ。私は、あなたが分からないということ。」から始めるべきである。平田オリザ『対話のレッスン』221