日本で唯一のリーダーシップ教育をする法学者として、大阪大学でグローバルリーダーシップ・プログラムのコーディネーターをして10年近くになる。法学教育ほどリーダーシップと縁遠いものはないというと皆納得してくれるのだが、アメリカ合衆国のオバマ大統領がハーバードの、民主党の大統領候補ヒラリー・クリントン氏がエールのロースクール出身であることを考えると、そうでもないのかもしれない。
リーダーシップ理論では、権限のあるリーダーシップと権限がないリーダーシップを区別する。前者は大統領、首相や社長、後者はガンジーやマーティン・ルーサー・キングを考えればわかりやすい。首相でも社長でも、リーダーシップがなくてだれもついていかなかった例やおかしな指示をして組織をダメにした例はすぐ思いつく。ガンジーやキング牧師は、公的な権限がないのに人々を動員して社会に大きな変革をもたらした。公的権限を持った人が命令やインセンティブで人々を動かすのは、本来のリーダーシップではないのである。
ところが法律学では法的権限がなかったり権限を越えたりして行為することは、否定的に評価される。テレビドラマでは役人や刑事が権限を越えて活躍するともてはやされるが、現実の世界はそうはいかない。もともと私人が自分たちのイニシャティブで不正な力に立ち向かったり自力救済をしたりすることに対しても、日本法は積極的には認めないのである。では日本の法律学はリーダーシップに冷たいのだろうか。
大学では長らく交渉のコースも担当してきたが、理論的にウィンウィンとはいっても自己利益の実現が前提であり、学生はどうしても勝ち負けにこだわる傾向がある。これに対して、リーダーシップを学ぶ学生はあらゆる場面で「私心を捨てる」ことが求められる。たとえば、自分だけその場を雄弁に取り仕切るよりも、他の参加者のよいところを引き出す方が評価される。懇親会でも「リーダーは最後に食べよ」といわれる。
要するに、他人の信頼を受けてその人のために行為する者は、もっぱら自分の利益よりもその他人の利益をはかる義務があるということである。これは法律学でいう信認義務(忠実義務)にほかならない。リーダーシップの授業では、信認義務が問題となる場面を色々作ってその義務をいかに履行するかをみんなで練習していることになる。
法律学がリーダーシップに無関心なのではなく、日本の法学教育が今の世界に必要な他人のために働く人材の養成に適応しきれていないのではないだろうか。
”Law Books” 別冊『エッセイ特集』 No.1 Autumn-2016裏表紙より
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