最近の若い社員は元気がないとか主体性がないとかいう企業人が多いが、実は自分の姿の反射を見ているのではないだろうか。相手によって胸襟の開き加減が違うという清水良典氏の発言[1]や、教える授業は潜在的に主体性のある学生を受け身にさせるという木川田一滎教授の問題提起[2]とも共通点があるようだ。
最近の若い社員は元気や主体性がないという企業人の嘆きをよく聞く。昔はみんな勇んで留学や外国駐在に出かけたのに、どうしたのかというのである。大学教員もまったく同じように嘆いているのだから、本当に日本の若者は元気がなくなったのかと思ってしまう。ここで大学の教育が悪いとか家庭の育て方に問題ありだとかと評定するのではなく、元気がないという人自身に原因があるとは考えられないだろうか。
大学で教えていると、確かに最近の学生はまじめに授業に出てくるし、おとなしいという印象を受ける。居眠りするくらいなら下宿でゆっくり寝てればよいのに、と授業をさぼりまくった自分の青春時代と比較してしまうのである。しかし、この9年ほど大学対抗交渉コンペティションを運営してみて、学生が物事に取り組む強い意欲と進化の早さに圧倒され続けているのもまた事実である[3]。コンペティションの審査員として協力してくださっている企業や法曹の人々も、ほとんどが最近の学生はすごい、日本の未来は明るい、学生にパワーをもらったという感想を寄せられている[4]。これはどういうことだろうか。
発想の転換とは、自分の態度が相手に影響を与えているのではないかと気づくことである。自分の姿が相手に反射するといったのはこの意味である。しかし、イケイケドンドンの企業人はここで異議を唱えるだろう。「わたしは上司にも堂々と意見を言ったものだ。君たちも頑張れ」と励ますのだが、いっこうに効果がないと。ここで相手の立場に立って考えて欲しい。元気な上司に「言いたいことがあれば何でも言ってみなさい」と言われて発言したら飛ばされたというコマーシャルもあったくらいなのだから。
それでも「僕の若い頃は上司に直言したものだ」という社長がおられたら、それは自慢なのか上司に恵まれていたのか、それとも上司を含めて運がよかったのかもしれない。つまり、希有な例だったかも知れないのである。希有な存在ならば、会社もたまたまその社長の下で元気になるだけだろう。しかし、運にまかせるだけでは組織や社会の持続可能な活力は生まれてこない。大勢の若者が元気な力を秘めているとすれば、教育によって潜在的な力を引き出すことを考えるべきではないだろうか。
発想の転換の参考になるのが、木川田一滎教授が試みられているワークショップ型の授業である。木川田メソッドの基本的発想は、学生はもともと主体的に考え、発言し、行動する力があるのに、教える授業によって彼らを受け身にさせてしまっているというものである[5]。木川田教授は、知識や経験のない人に教えてやろうという「講義」ではなく、若い知を育むワークショップ型授業を実践しようと呼びかけられている。木川田式ワークショップを見学して、確かに学生の主体性を引き出すことができると実感した[6]。もっとも必要なのは、教師が態度を「Change」することである。あとは、少々の訓練と創意工夫で学生の主体性を表に出すことができる。若者の元気を奪っているのは、上司の「講義」なのである。
[1] 「しかし共通して、相手によって胸襟の開き加減がはっきり区別できる点が面白い。音楽家のセッションにも似て、波長の合った相手とは、気さくな肉声や驚くような裏話も飛び出してくるのだ。」日本経済新聞 2010年11月1日(月)20面参照。
[8] 西欧的思惟は議論の積み重ねだが、日本では辛気くさいと感じられる。これに対して論語や老子などは、箴言集のようなものだ。孔子が「仁の実践は自己の努力に由来するので、他人に頼って仁を実践することなどはできない。」と言われると、優秀な弟子の顔淵は「私は愚鈍な人物ではありますが、先生の言葉を実践させて頂きたいと思います(回、不敏と雖も、請う、斯の(この)語を事とせん)。」と応えるのである。しかし、筆者は東洋的思惟に体系的思惟がないとは考えないし、また、「子曰く」だけではなく西欧的な議論の習慣も必要だと思う。「東洋的思惟と西欧的思惟の対決」参照。
[10] このブログやTwitter http://twitter.com/nomuraknもそのような試みの1つである。また、野村美明「ARTとしてのリーダーシップ-対話による実践知の言語化」『国際公共政策研究』14巻1号1頁以下(2009)も少し学問的な第一歩である。特定非営利法人グローバルリーダーシップ・アソシエーション(GLEA)のホームページには、「リーダーシップ実践知データベース」の例が掲載されている。http://www.npo-glea.org/jigyo/db.html