NHKで藤原清衡の中尊寺落慶供養願文(1126)の画像が流れたが、「蛮夷は善に歸し」が読まれなかった。「征夷」大将軍坂上田村麻呂による802年アテルイ降伏から前九年・後三年の「役」の歴史の無視。頼朝による奥州征伐(1189)により、兵どもが夢の跡(1689芭蕉の旅)となる。20110731改訂済 http://twitter.com/#!/nomurakn/status/97582029343956993
802年、蝦夷の指導者アテルイは、「征夷」大将軍坂上田村麻呂に降伏した。その後、前九年の「役」(1051〜1062年)および後三年の「役」(1083〜1087年)を経て、中尊寺が建立されたのである。
「官軍と夷虜の死の事、古来幾多なり」、「精魂は、皆他方の界に去り、骨は朽ち、猶もって此土の塵となる。鐘の聲(ね)の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をし て、浄刹(じょうさつ)に導かさしめん。」
[官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。・・・命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっております。この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。]
「蛮夷は善に歸(帰)し、 豈(あに)、諸佛、摩頂の場に非ずや。」
1185年(文治元年)壇ノ浦の戦いで平家滅亡。1187年源義経平泉に亡命。同年藤原秀衡(藤原氏三代)死去。1189年(文治5年)、義経は藤原泰衡に襲われ自害。同年、頼朝の奥州攻め。奥州藤原氏滅亡[4]。
三代[6]の栄耀(えいえう)一睡(すゐ)の中にして、大門のあとは一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山(きんけいざん)のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河なり。衣川(ころもがは)は和泉(いづみ)が城(じやう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡(やすひら)等が旧跡(きうせき)は、衣(ころも)が関(せき)を隔(へだ)てて南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名(こうみやう)一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷(し)きて時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)
夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)
[1] 中尊寺のホームページで一部の画像がみられる。「文化財の紹介」「紙本墨書中尊寺建立供養願文(重要文化財 建武3年(1336))」によれば、「失われた原本は藤原敦光が起草し、藤原朝隆の筆と伝える。嘉暦4年(1329)の奥書と端書のある輔方本と「鎮守大将軍」の奥書のある顕家本がある。顕家本は延元元年(1336)、北畠顕家19歳の筆になる。」という。中尊寺大長寿院蔵。http://www.chusonji.or.jp/guide/culturalassets/index.html.
[2]中尊寺落慶供養願文、平泉研究家の佐藤弘弥氏による編集・読み下し文および現代語訳から一部修正のうえ引用した。
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