2012年1月27日金曜日

説明上手と下手の違い


わかりやすく説明できる人とそうでない人の違いを最近発見した。説明下手な人はわからないことを人のせいにする。わかるはずだと思う。だから治らない。説明上手は自分が至らないからだと思う。学者でも大学院生でも秘書でも、いつも気をつけて相手の立場で説明しているから上達するのである。

仏教学者の中村元(19121999)先生のつぎの言葉は、わかりにくい論文や教科書を書く法学者になるほどと思わせるものだ。なにしろ、漢訳仏典ではわけがわからんというので多数(ご本人は「とびとびに撫でただけ」といわれる)の仏典をサンスクリット[1]原文から訳し直された方なのである。説得力がある。
「一般に、わかりやすく説くのが通俗的で、わけのわからないようなしかたで説くのが学術的であるかのように思われているが、これはまちがいで、わかりやすく説くのが学術的で、あいまいなままにしておくのは非学術的であろう。」[2]
 もっとも、いつか紹介した『ブッダのことば スッタニパータ』[3]はパーリ語聖典から翻訳されたそうだ。そこではなぜ漢訳語ではだめなのかの理由がつぎのように述べられている。
「もともとインドでは耳で聞いて口づてに伝承されていたものであるから、この性格をやはり保持したいと思った。耳で聞いても解らぬような漢訳語を使うことは、およそ原典の精神から逸脱している」[4]
法学者の想像を超えた学識で、参りましたです。

『ブッダのことば スッタニパータ』では、中村先生はブッダの「その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書」(433頁)「歴史的人物としてのゴーダマ・ブッダに最も近いものであり、文献としてはこれ以上遡ることができない」(438頁)と説明されている。この記述からは、先生の「これは伝えねば」という意気込みと使命感が感じられるのではないだろうか。
日本の学者の論説や翻訳がわかりにくいのは、本当の語学力がないことに加えて、「伝えたいという思いが弱いから伝わらない」からだと書いたが[5]、日本にも中村先生のような本物の学者がいたのである。




[1] サンスクリットだけではないことは、後述。
[2] 中村元著 シリーズ「現代語訳 大乗仏典」全7巻の各巻についている「はしがき」より。
[3] 201183日水曜日http://nomurakn.blogspot.com/2011/08/blog-post.html.ワイド版岩波文庫、1991年。
[4] 前掲注(3)440頁。
[5] 2011611日土曜日「伝えたいという思いが弱いから伝わらない」http://nomurakn.blogspot.com/2011/06/blog-post.html.2010521日金曜日「弁護士と法学者の対話」http://nomurakn.blogspot.com/2010/05/blog-post_21.html.

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