2011年5月29日日曜日

根拠を示して発言するということ

助動詞の「助」には本当に助けや救いという意味があったのだというツイートをした。(http://twitter.com/#!/nomurakn/status/63967997181702144)。
もう一つ、ツイッターやブログの発言は信頼性が確かめにくいとも言った。(http://twitter.com/#!/nomurakn/status/72298194209476608)

リーダーシップ教育では、責任をとるということの意味も考えているが、自分の発言の確からしさを示すのも重要な責任だと思う。学問では確からしさを示すのに出典を明記する。しかし、自分の専門領域以外で信頼できる出典を示すのは難しい。以下はその例である。[誤訳を修正して新たな脚注を付した。ver.2011/05/31]。


うえのツイッターで紹介した「我が救い主より来たる」という曲は、Pierre Passereauが作曲した “Auxilium meum a Domino” という曲である。ラテン語で書かれた歌詞の出だしを引用する[1]

Auxilium meum a Domino, quia non repellet plebem suam,
et hæreditatem suam non derelinquet.
私の救いは主からもたらされる、なぜなら主はその民をはねつけず
またその継承者を置き去りにはなされないから。
[室内合唱団アンサンブル・ヘーメルス創立25周年記念 第25回コンサート
歌詞対訳 井上一朗(2011)

歌詞は聖書からとったようだが、聖書にはそのものズバリの言葉はない。どうも詩篇のあちこちから引用して作ったようだ。第1節の「私の救いは主からもたらされる」という言葉は、詩篇 第121篇の有名な「都もうでの歌」からとられている。

1 わたしは山に向かって目をあげる。
  わが助けは、どこから来るであろうか?
2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
[口語訳]

聖典の翻訳というのは本来あり得ないのかもしれないが、現在流布している日本語訳でも「新共同訳」と「口語訳」がある[2]。ここでは「口語訳」のほうが口調がよいと思ったので、引用した[3]。歌詞と同じラテン語訳と英語訳はつぎのようである。

Psalm 121
1 Levavi oculos meos in montes, unde veniet auxilium mihi.
2Auxilium meum a Domino, qui fecit cælum et terram. 

1I have lifted up my eyes to the mountains, from whence help shall come to me.
2 My help is from the Lord, who made heaven and earth. 

本論から外れるが、日本語訳では、なぜ山々を見ることが助けにつながるのかがまったく分からない。ユダヤの民がふるさとの山に向かいて感傷的な気分に浸るわけでもないだろう。神(々)の住まわれる聖なる山々なら、助けが主から来るという次の句につながるのである[4]

ところで、うえのNew Adventのサイトでは、ほかにギリシャ語の対訳がつけられている。詩篇は旧約聖書におさめられているから、聖書の専門家ならヘブライ語も必要かもしれない[5]

つぎに、「なぜなら主はその民をはねつけず、またその継承者を置き去りにはなされないから」という語句は、詩篇第94篇の14節にある。

詩篇 第94
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
[口語訳]

Psalm 94
14 Quia non repellet Dominus plebem suam, et hæreditatem suam non derelinquet,
14 For the Lord will not cast off his people: neither will he forsake his own inheritance. 

というように、宗教曲に含まれている聖書の言葉のほんの一部でも、出典を探すのは大変だということが分かる。探し当てても翻訳の場合は、それがどこまでオリジナルの意味を伝えているかはわからない。各国語の聖書の言葉を掲載したウェブサイトは膨大にあるが、それが信頼できる内容なのかどうかは素人には分からない。信頼できる根拠と出典を示す専門家の役割は大きい。

反対に、信頼できない主張とは、信頼できる根拠と出典を示すことができない主張のことである。発言の時には根拠と出典を示していない主張であっても、この人の言うことなら信頼できると思うのは、その主張がその場の思いつきではなく、信頼できる根拠に基づいているに違いないと信頼するからである。信頼とは別の信頼に依存することがわかる。政治家の発言の場合はどうだろうか。


[1]米国マサチューセッツ州のThe Cambridge Chamber Singers(以前はThe Cambridge Madrigal Singersといった)のホームページで、最初の一節を試聴できる。
[2] 『口語新約聖書』(昭和29年、1954年)http://www.bible.or.jp/know/pdf/new_testament.pdfでは聖書翻訳の歴史について書かれており、翻訳自体が学問的に成立していることが分かる。
[3] 新共同訳では「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」となっている。
[4] どうつながるかは問題である。つぎのウェズレイの注釈をみても、素人には本文に書いた以上は分からない。しかし、オックスフォード注釈聖書によれば「バールと呼ばれる土俗の豊穣の神々」が住まわれる山々を見てレトリカルな問いをして、助けは唯一神ヤーヴェから来るのだと答えていることになる。John Wesley [1703 –1791]の注釈:Hills - To Sion and Moriah, which are called the holy mountains.オックスフォード注釈聖書:The hills may be the “high places” where the baals, the local fertility gods, were worshiped (2 Kg.23.5). The New Oxford Annotated Bible, Revised Standard Version with the Apocrypha (1971).
[5] ルターは新約聖書をギリシャ語版から、旧約聖書はヘブライ語から苦労してドイツ語に翻訳した。16世紀にはラテン語の聖書が一般的だったので、聖書をラテン語が読める聖職者から解放して庶民のものにしようと考えたのである。ルターの「翻訳に関する書簡」(Sendbrief vom Dolmetschen, 15.9.1530)がルター全集に収められている(WA30S 632)。ルター全集は本格的なものがインターネットアーカイブで読めるがhttp://www.archive.org/details/texts、色々な版があって探しにくい。デンマークにはもっと読みやすいデータベースがある。http://www.lutherdansk.dk/WA%2030%20II/WA%2030%20II%20-%20web.htm
この書簡の英独対訳もある。http://www.bible-researcher.com/luther01.html

2011年4月27日水曜日

交渉の第6ポイント コミットメントを利用する例

2010617日木曜日交渉力を高める7つのポイントhttp://nomurakn.blogspot.com/2010/06/blog-post_17.htmlでは、
6ポイントをつぎのように説明した。

6 確約(コミットメント)の仕方を工夫する
○こちらが何をするかを明確に示す。
○相手に何をしてほしいかを明確に示す。

以下では、例を補足しながらコメントする。

Fisher [1991]は、確約の例として、人を雇いたいときに、こちらから明確なオファーをして、相手がイエスといえば合意成立という状態にすることをあげた。交渉の授業では、日本の次の例を用いることがある。

開発事業で立退を拒む地権者の家に出かけて目の前でテーブルの上に札束を積み上げると、ほとんどがイエスという。

太田勝造先生があげられている「背水の陣」もわかりやすい。背水の陣で味方に決死の覚悟をさせて敵を破った『史記』の逸話である。太田勝造「交渉のゲーム論」太田・野村[2005139頁。自分が特定の選択肢にコミットしたことを相手に明確に伝えるようなコミットメントのことを、「信用できるコミットメント」(credible commitment)という。

学生には、メールの例がわかりやすい。相手にメールを読んでもらい、返信してもらうためにはどう書けばよいかを練習するのである。

メールを書くときに、イエスかノウか、○か×かで答えられるように工夫すると、返答率が高いのもコミットメントのテクニックの応用である。「ワンクリック詐欺」はこれが悪用された例である。

こちらの交渉力を高めるためには、相手が「信用できるコミットメント」を提示すればよいだ。こちらのコミットメントで相手が動くのは、コストベネフィット分析の応用としても説明できる。つまり、相手の費用を下げ効用を上げるのである。通常は効用を上げるより費用(時間、労力)を下げる方が簡単である。これはメールの書き方に応用できる。反対に、メールを例にして交渉を教えることも可能だ。


参考文献
1.Fisher, Ury & Patton, Getting To Yes (Penguin, 2d ed., 1991)(Fisher [1991])日本語訳:金山宣夫、浅井和子訳『新版ハーバード流交渉術』(ティービ-エス・ブリタニカ、1998
2.太田勝造・野村美明編『交渉ケースブック』(商事法務、2005年)(太田・野村[2005])

2011年3月18日金曜日

演劇ワークショップ入門-コミュニケーション力を引き出す

コミュニケーション力を「引き出す」演劇ワークショップとはどんなものだろう。その入門を劇作家・演出家の大阪大学の蓮行先生に実演してもらった。

木川田先生による元気を「引き出す」ワークショップ型授業とともに、押しつけるのではなく引き出す授業の効果を学校や職場でぜひ試してもらいたい。

くわしくはつぎの書物を参照。

☆平田 オリザ・蓮行『コミュニケーション力を引き出す 演劇ワークショップのすすめ』 (PHP新書、2009年)

以下の説明は、KDほかKTゼミ生制作によるパワポにnomuraknが補足して作成したものである。

















2011年3月10日木曜日

私心を捨てるということ-Obliti Privatorum

前原外務大臣は外国人政治献金問題で、「私心を捨てて」辞任した。私心を捨てて公務にあたれ"Obliti Privatorum - Publica Curata"。ラテン語でクロアチアのドゥブロヴニク旧総督府の碑文にある(下の写真参照)。15世紀頃に広まった政治家の「理想」を表す標語らしい。

鳩山邦夫総務大臣とのバトルで有名になった日本郵政の西川善文前社長にリーダーシップで一番重要なことは何かときいたら、迷わず「私心を捨てること」だと答えた。氏は大銀行の頭取を8年間も務め、日本郵政社長としても鳩山大臣が辞任させられたのに自分は踏みとどまった。私心を捨てることは西川流の打たれ強さやしぶとさの源泉であるようだ。

私心を捨てることは信頼されるリーダーの評価基準になるのではないか。たとえば、民主党政権の鳩山由紀夫前首相や菅直人首相は私心を捨てているように見えるだろうか[1]

ところで、"Obliti Privatorum - Publica Curata" (forget private affairs - look after the public causes)という碑文があるドゥブロヴニクの旧総督府は、この地方がドゥブロヴニク共和国(ラグサ共和国)であった時代の遺物である。旧総督府は12世紀に建設(15世紀に再建)された。共和制時代の元首が総督(Rector)である。総督は、一ヶ月間の任期で選挙で選ばれたそうだ[2]。任期1ヶ月では私心を介在させる余地はなかっただろう。


  
1.(注3文献より転載) Rectors Palace, former entrance to the Major Council Hall (photograph: Nenad Gattin)

"Obliti Privatorum - Publica Curata"という言葉がどこから来たかについては諸説がある。プラトンやキケロという説もあるようだが、15世紀頃の西欧で広く流布していた警句からとられたという見解が説得的である[3]



[1] 私心を捨てたように見えるというのはどのような状態なのだろうか。これは演技と本質の関係を含め今後色々な分野の人との対話によって明らかにしていきたい。
[3] NELLA LONZA,"OBLITI PRIVATORUM PUBLICA CURATE:A RAGUSAN POLITICAL EPIGRAPH AND ITS HISTORICAL BACKGROUND," Dubrovnik Annals 11 (2007): 25-47.

2011年2月17日木曜日

法的議論と議論の構造

交渉コンペティションシンポジウム「ディベートと法教育―議論がかみ合うとはどういうことかをきっかけに、論理学などでいう議論と法的議論との関係を例示してみた。


1.伝統的な議論の形

伝統的な議論の形は形式論理学で見られる。たとえばつぎの「三段論法」が有名である。

No.1
大前提:人間はみな死ぬ[1]。略称R
小前提:ソクラテスは人間だ。   略称F
結論:(だから)ソクラテスは死ぬ。略称C

1段目の「人間はみな死ぬ」という命題は、大前提と呼ばれる。一般法則のようなものだ。2段目の「ソクラテスは人間だ。」は小前提と呼ばれる。目の前にある事実、観察できるデータといってもよい。3段目の「ソクラテスは死ぬ。」は結論である。

大前提、小前提及び結論を短く表現するために、つぎのような省略記号を使おう。1段目の一般的な法則をあらわす大前提は、ルールの頭文字をとって「R」、2段目の前提を事実つまりファクトの「F」、最後の結論はコンクルージョンでもクレイム(主張)でもよいので「C」とそれぞれ略称するのである。

形式論理学で「論理的に正しい」議論とは、前提(RF)から結論(C)が「論理必然的に」導かれるような議論のことである。つまり、形式論理学では、論理的に正しい議論とは、前提(RF)が結論(C)とつぎのような関係を有すると定義される。言い換えれば、「もしRおよびFという前提が仮に「真」だとすれば、Cという結論も真として受け入れる説得的な理由となる」というような関係である。

しかし、現実の議論はこのように「論理必然的」といえないことが多い。つぎの法的議論をみてみよう。


2.法的な議論の形

法的な議論の典型は、実際の裁判で用いられている議論の形である。このため、判決三段論法と呼ばれる。

No.2

R:人を殺した者は死刑になる。
F:ソクラテスは人を殺した。
C:(だから)ソクラテスは死刑にされるべきだ。

判決三段論法は、No.1の形式論理学の三段論法の応用であることがわかるだろうか。しかし、形式論理学とは違って、RFの前提自体もあいまいだし、前提から結論が必ず導かれるわけでもない。

形式論理の例では「人間はみな死ぬ」という大前提は、だれでも受け入れられる法則であった。では「人を殺した者は死刑になる」という前提はどうだろうか。まず、死刑が廃止になっている国ではそうはいえない。では日本ではどうか。日本の刑法199条では、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と定められている。しかし、人を殺しても無期刑や懲役刑になるかもしれない。したがって、正確には、「人を殺した者は死刑になる可能性がある」とか「人を殺した者は原則として死刑になる」というべきである。

もっと正確には、「人を殺した者は、無期刑や懲役刑にならない場合には、死刑になる」というべきかもしれない。しかし、これでは文章が複雑すぎて論理の構造がわからなくなるので、以下では「人を殺した者は死刑になる」という前提が正しいと仮定して考えてみよう。

「人を殺した者は死刑になる」という前提が一般法則として受け入れられるとしても、つぎの小前提の「ソクラテスは人を殺した」という事実はそんなに確実ではない。多くの裁判では、ソクラテスが本当にその人を殺したかが一番の問題点にされるのである。

しかし、「ソクラテスは人を殺した」ことが事実であると仮定したとしても、だからソクラテスが死刑になるという結論が常に導かれるわけではない。ソクラテスの行為が正当防衛(刑法36条)であったり、ソクラテスが責任無能力者(刑法391項、41条)である場合には、罰されないからである。

以上のように、判決三段論法のような実際の議論の構造は、大前提と小前提の確からしさも、そこから結論を導ける確からしさも、No.1形式論理学に比べて劣っている。そもそも現実の議論を「三段論法」であらわすのが無理なのである。有名な哲学者のトゥールミン[2]は、実際の議論の構造が形式論理とは異なることを示すために、法的な議論を用いて説明した。


3. 哲学的な議論の例
トゥールミンが用いた次の有名な例をみてみよう[3]

No.3


R:バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。
F:ハリーはバミューダで生まれた。
D:(だから)ハリーは英国人である。

この構造は、No.2の法的議論そのものである。したがって、三段論法の各段階について判決三段論法と同じあいまいさがある。もっとも怪しいのは大前提の法則性である。

大前提は「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」とされており、「原則として」が入っている。しかも日本の法律家には、「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」という命題の法則性が理解できない。なぜなら、日本で生まれた者でも父または母が日本人でないと原則として日本人にはならないからである[4]。「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というのは、英国の国籍に関する法律[5]の裏付け(バッキング)があって初めて受け入れられる命題なのである。

しかし、裏付けとなる英国の国籍法にも例外がある。すなわち、バミューダで生まれた者であっても、両親が共に外国人である場合やアメリカに帰化した場合には、英国人とはならない。だから「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というように、「原則として」が入っているのである[6]

「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という論理を支えているのは、なぜなら「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる」からだという論拠である。しかも、論拠には裏付けがないと信頼性を欠くし、論拠自体にも例外が存在することにも注意する必要がある。

トゥールミンは、「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という議論は、次のような構造を持って初めて受け入れられるようになると主張したのである(下記図参照)。


図 議論の構造と法的議論


以上のようなトゥールミンの主張を法律家の視点で言い換えれば、つぎのようになる。「ハリーは英国人である」とか「ソクラテスは死刑にされるべきだ」とかという「結論」はすべて法的な主張である。すなわち、法的な主張は法的な議論の結論であり、法的な議論は法令の裏付けがあるルール(法規範)で支えられられ(論拠を与えられ)ないと成り立たないという性質を持っている。同様に、その他の実際的な議論も、裏付けのある法則によって支えられていないと成り立たないし、法則には例外(主張に対する反論)があるという点も押さえておかないと、議論としての説得力が弱くなる。

法的な議論は法規範によって正当化されているから、最終的には国家の権威や強制力によって支えられているといえる。したがって、法規範の保護が及ばない(または及ぼすべきでない)私的な関係や外国での出来事においては、法的な議論が通用しない場合がある。

ソクラテスは、国家の信奉する神々を信奉せず、別の新奇な神霊を信奉し,かつ青年たちを腐敗させたので死罪になった。このときに死罪を主張した側とソクラテスとの間の議論は、プラトンの『ソクラテスの弁明』で再現されている[7]。ソクラテスは現在の日本では死刑にはならないだろう[8]。法的な議論に限らず、社会が異なると議論を正当化する論拠も異なるのである。



[1] 英語ではmortalつまり「immortal不死」ではないと表現する。
[2] Stephen Edelston Toulmin, The Uses of Argument, Cambridge U. Pr.1958.2003.
[3] 福澤一吉『議論のレッスン』65頁以下(2002)参照。
[4] 国籍法2条参照。
[5] バミューダは英国の海外領なので、英国の国籍法が適用される。ただし、バミューダ自体は立法権、自治権を持っているから、外国企業には法人税をゼロにするなどの法律を制定して投資を呼び込んでいる。
[6] 日本の国籍法とは原則が違うことに気がつくだろう。日本は父母の血統主義を原則とし、英国は生地主義を原則とする。米国はどうだろうか。
[7] プラトン『ソクラテスの弁明』http://page.freett.com/rionag/plato/apology.html
[8] 日本でも、人を殺さなくても死刑になる場合がある。刑法81条(外患誘致罪)参照。