2010年11月12日金曜日

自分の姿が相手に反射する-共鳴のリーダーシップの構想(2)

最近の若い社員は元気がないとか主体性がないとかいう企業人が多いが、実は自分の姿の反射を見ているのではないだろうか。相手によって胸襟の開き加減が違うという清水良典氏の発言[1]や、教える授業は潜在的に主体性のある学生を受け身にさせるという木川田一滎教授の問題提起[2]とも共通点があるようだ。

最近の若い社員は元気や主体性がないという企業人の嘆きをよく聞く。昔はみんな勇んで留学や外国駐在に出かけたのに、どうしたのかというのである。大学教員もまったく同じように嘆いているのだから、本当に日本の若者は元気がなくなったのかと思ってしまう。ここで大学の教育が悪いとか家庭の育て方に問題ありだとかと評定するのではなく、元気がないという人自身に原因があるとは考えられないだろうか。

大学で教えていると、確かに最近の学生はまじめに授業に出てくるし、おとなしいという印象を受ける。居眠りするくらいなら下宿でゆっくり寝てればよいのに、と授業をさぼりまくった自分の青春時代と比較してしまうのである。しかし、この9年ほど大学対抗交渉コンペティションを運営してみて、学生が物事に取り組む強い意欲と進化の早さに圧倒され続けているのもまた事実である[3]。コンペティションの審査員として協力してくださっている企業や法曹の人々も、ほとんどが最近の学生はすごい、日本の未来は明るい、学生にパワーをもらったという感想を寄せられている[4]。これはどういうことだろうか。

発想の転換とは、自分の態度が相手に影響を与えているのではないかと気づくことである。自分の姿が相手に反射するといったのはこの意味である。しかし、イケイケドンドンの企業人はここで異議を唱えるだろう。「わたしは上司にも堂々と意見を言ったものだ。君たちも頑張れ」と励ますのだが、いっこうに効果がないと。ここで相手の立場に立って考えて欲しい。元気な上司に「言いたいことがあれば何でも言ってみなさい」と言われて発言したら飛ばされたというコマーシャルもあったくらいなのだから。

それでも「僕の若い頃は上司に直言したものだ」という社長がおられたら、それは自慢なのか上司に恵まれていたのか、それとも上司を含めて運がよかったのかもしれない。つまり、希有な例だったかも知れないのである。希有な存在ならば、会社もたまたまその社長の下で元気になるだけだろう。しかし、運にまかせるだけでは組織や社会の持続可能な活力は生まれてこない。大勢の若者が元気な力を秘めているとすれば、教育によって潜在的な力を引き出すことを考えるべきではないだろうか。

発想の転換の参考になるのが、木川田一滎教授が試みられているワークショップ型の授業である。木川田メソッドの基本的発想は、学生はもともと主体的に考え、発言し、行動する力があるのに、教える授業によって彼らを受け身にさせてしまっているというものである[5]。木川田教授は、知識や経験のない人に教えてやろうという「講義」ではなく、若い知を育むワークショップ型授業を実践しようと呼びかけられている。木川田式ワークショップを見学して、確かに学生の主体性を引き出すことができると実感した[6]。もっとも必要なのは、教師が態度を「Change」することである。あとは、少々の訓練と創意工夫で学生の主体性を表に出すことができる。若者の元気を奪っているのは、上司の「講義」なのである。

自分の態度が相手に影響を与え、相手の態度が自分にはね返ってさらなる態度を形成する。相手がよい態度をとってくれれば、それは自分だけではなく、相手の周りにも影響を与え、組織や社会を活性化していく。これが「共鳴のリーダーシップ」の基本的な発想である[7]。このようなリーダーシップの考え方は、東洋的な思惟[8]や仏教思想[9]に親近性があると思う。われわれは、「ハーバード」のリーダーシッププログラムで使われる米国や西欧の例ではなく、われわれに身近な例やケースを集めて、確固たる方法論を築きあげていきたい[10]。われわれが世界に誇れるリーダーシップ教育を行い、世界のルールやスタンダードの形成にリーダーシップを発揮していくためには、大学の同僚[11]や学生だけではなく、リーダーシップに関心のある日本のあらゆる人々と連携し、共に学んでいく態度がもっとも大切であると考えている。


[1] 「しかし共通して、相手によって胸襟の開き加減がはっきり区別できる点が面白い。音楽家のセッションにも似て、波長の合った相手とは、気さくな肉声や驚くような裏話も飛び出してくるのだ。」日本経済新聞 2010111日(月)20面参照。
[2] 後述参照。
[3] 交渉コンペティションについては、つぎのホームページを参照。
[4] 交渉コンペティションのホームページには審査員のアンケート結果の概要が掲載されている。
[5] 授業の趣旨はつぎのブログを参照。
[6] 教員から見た授業の様子はつぎのブログを参照。http://nomurakn.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
[7] 共鳴のリーダーシップの構想(1)については次のブログ参照。
[8] 西欧的思惟は議論の積み重ねだが、日本では辛気くさいと感じられる。これに対して論語や老子などは、箴言集のようなものだ。孔子が「仁の実践は自己の努力に由来するので、他人に頼って仁を実践することなどはできない。」と言われると、優秀な弟子の顔淵は「私は愚鈍な人物ではありますが、先生の言葉を実践させて頂きたいと思います(回、不敏と雖も、請う、斯の(この)語を事とせん)」と応えるのである。しかし、筆者は東洋的思惟に体系的思惟がないとは考えないし、また、「子曰く」だけではなく西欧的な議論の習慣も必要だと思う。「東洋的思惟と西欧的思惟の対決」参照。
[9] たとえば法然上人はいかに育てられたかについて、つぎのブログ参照。
[10] このブログやTwitter http://twitter.com/nomuraknもそのような試みの1つである。また、野村美明「ARTとしてのリーダーシップ-対話による実践知の言語化」『国際公共政策研究』1411頁以下(2009)も少し学問的な第一歩である。特定非営利法人グローバルリーダーシップ・アソシエーション(GLEA)のホームページには、「リーダーシップ実践知データベース」の例が掲載されている。http://www.npo-glea.org/jigyo/db.html
[11] 大阪大学では学生のためにグローバルリーダーシッププログラムを提供しており、また異分野の教員が集まって日本に適したリーダーシップ理論と教育方法を研究している。

2010年11月3日水曜日

授業風景 若い知を育むワークショップ型「考える」模擬授業

10月27日(水)に木川田一滎教授による「若い知を育むワークショップ型『考える』の模擬授業が行われた。授業風景を紹介する。受講者による解説付き写真集が12月の中旬には完成する予定である。



Ⅰ. ワークショップの流れ

つぎの【スライド1】のように、①共同化→②表出化→③結合化→④内面化と進む。今回は結合化のアイディア共有(チーム発表)を見学した。ここでは、②のアイディア創出の場面までをお見せする。

なお、以下の2枚のスライドは木川田一榮教授が講義のために作成されたものであり、このブログとグローバルリーダーシッププログラムのホームページへの転載許可を受けている。


【スライド1】 Kazワークショップの流れ



Ⅱ. 講義の心得十ヶ条より


【スライド2】


【写真1】は【スライド2】の第二条「授業への参画意識を高める(Vayage Quiz)」の風景である。クイズの問題は、「知人を何人たどれば米国大統領Barack Obamaにたどりつくことができるか」である。


【写真1】 世界は今:Vayage Quiz !!!



クイズの答えは2人。【写真2】は木川田→ゼロックス元CEOのAnne Mulcahy→そしてオバマ大統領を示している。


【写真2】木川田、Anne Mulcahy、Obama



Anne Mulcahyから創造的グローバル企業のヒアリングの話となる。これは【スライド2】第九条「実際のエピソードを物語る」。


創造的グローバル企業のヒアリングにおいて木川田教授がもっともよく耳にしたキーワードは何か?。答えはInnovationとCollaborationである。ここでワークショップの第1のテーマが紹介される。

InnovationとCollaborationを引き起こすためのリーダーシップの重要要件とは何か?

このテーマは、ワークショップの第2のテーマ、「個」として世界を観るにつながる。参加者は、①私たちを取り巻く環境の課題認識とは何か(現在・10年後)を前提に、②求められるリーダーシップの要件とは何か?を考えることを求められる。


【写真3】 参加者がブレーンストーミングを行っている間に、教員に対する説明が行われた。


【写真3】の右上には第2のテーマのスライドが映っている。


【写真4】 教員らの背景ではブレーンストーミングが続いている。




【写真5】 求められるリーダーシップとは何か。アイディアの創出が続く。




Ⅲ.木川田式ワークショップ型授業は学生のよいところを引き出す

ワークショップは、【スライド1】のチーム発表によるアイディア共有まで進んだ。参加者がチームのアイディアをまとめるの時間は20分程度と短かったが、どのチームも①私たちを取り巻く環境の課題認識に基づいた②リーダーシップの要件をしっかり述べていた。また、プレゼンテーションにも創意工夫がされており、活発でわかりやすく好感が持てた。

授業の目標で述べられたように、木川田式ワークショップは、学生の主体性を引き出す効果があると思った。「最近の学生」は主体性がないのではなく、主体性が表に出ていないだけなのである。

Twitterに大学対抗交渉コンペティションでみる元気な若者像を紹介したが、ここでも同じことが言えそうである。

最近の若者は元気がないとか主体性がないとかいう企業人や教員が多いが、実は自分の姿の反射を若者に見ているだけなのではないだろうか。




2010年10月7日木曜日

若い知を育むワークショップ型「考える」模擬授業

企業出身の人が大学で教えるケースが増えているが、うまくいっているものは少ない。大阪大学の木川田一榮教授は例外である。木川田教授は富士ゼロックスでリーダーシップ養成や色々な研修の企画に携わってこられたプロであるからかも知れない。

木川田教授の挑戦は、従来の講義型の「教える」授業にある。教える授業は、本来は主体性を持っている学生達を受け身とさせてきたのではないかという。木川田教授によるワークショップ型「考える」授業は、受講者に授業後も授業外でも主体的に色々なことにチャレンジする勇気を与えている。大学だけだともったいないので、以下に模擬授業の予告を掲載して共有したい。

●~ 若い知を育むワークショップ型「考える」模擬授業 ~●
大阪大学リーダーシップ教育研究会主催

今回は学生に人気の木川田ワークショップを再現し、「阪大スタイル」の魅力的な講義のあり方や創意工夫を、学生・教職員と共に考えて、参加者全員の実践につなげる契機としたいと思います。

ぜひワークショップにご参加され模擬授業を見学いただき、今後の阪大の授業のあり方について学生を交えて意見交換をしたいと存じます。

お申込は下記まで。

GLP事務局
glp@osipp.osaka-u.ac.jp

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■日時:1027日(水)4限・5限(1440161016201750
■場所:大学教育実践センター
スチューデントコモンズ1階 開放型セミナー室
■講師:大学教育実践センター キャリア教育支援部門教授 木川田一榮
■内容 4時限と5時限を利用して、休憩をはさんで連続二部編成で行います。

第Ⅰ部では、講師は、参加学生たちが、ワークショップによる共に「学びあう」知識創造の楽しさを即興的に体験できるように、水先案内役を果たしながら授業を進めます。
一方、教職員のみなさんには、実況中継的に「今やっていること」の意味や意図などについての解説をしながら、二役を演じながら同時進行していきたいと思います。

第Ⅱ部では、学生・教職員のみなさんを含めて、ワークショップ型「考える」授業から得た示唆や気付きについて、参加学生・教職員のそれぞれの立場から、意見交換・アイデア提案や質疑応答などを行う予定です。

2010年9月21日火曜日

交渉コンペ第1回リーダーズキャンプ

今日と昨日は秦野の上智大学セミナーハウスで、交渉コンペティション(以下では「交渉コンペ」)[1]の第1回リーダーズキャンプがあった。15大学(オーストラリアだけが不参加)から2人ずつの代表が参加して、124日と5日の本番に向けてより効果的な準備方法を各大学に持ち帰ってもらおうという趣旨である。参考資料は交渉コンペの公式ホームページに掲載する予定である。

昨日の第1日目は、静岡家裁の樋口正樹裁判官によるディベート実技。2つのチームが対戦し、他の2つのチームがジャッジとなる方式を、それぞれ肯定否定を入れ替えて2回実施した。事例問題の論点について討論するところがゲームディベートより仲裁や訴訟に近い。交渉コンペで採用している方法をより簡易にしたものである。この方法は交渉コンペの効果的な練習になるのはもちろん、法律学の授業でも使えそうだ。

2日目の今日は、交渉コンペの運営委員から仲裁、交渉のそれぞれのラウンドの審査基準の説明と過去問の分析が行われた。仲裁と交渉の相違がきちんと理解できていないと練習できないという太田勝造東大教授からの指摘があった。常に定義の大切さを強調しているわたしとしても我が意を得たりである[2]

交渉の審査基準では、「ウィンウィン・ソルーションを目指していたか」というのがある[3]。ところが、ウィンウィンの意味を「足して2で割る」と誤解している学生がいる。これではよい評価は受けられない。

 太田教授によれば、ウィンウィン・ソルーションとは折半することではなく、パイを大きくすることである。だから和解における互譲(民法695条)もウィンウィンではないと岡田幸宏同大教授。次のゲームで説明してみよう。

 姉妹が1個のオレンジを「これはわたしのものよ」と取り合っている。オレンジの価値が10だとすれば、姉がオレンジをとり、妹が失うとすれば+10と-10で足すと総和は0となるから、これはゼロサムゲーム。オレンジを折半すれば、それぞれ+5+5を獲得するから合計は10となり価値は変わらない。

ところが姉が本当に欲しいのはケーキ用の皮で、妹は実を食べたいだけだったとすれば、2人で皮と実を分ければ双方共に+10+10を獲得できるから、価値の総和が20になる。つまりこの解決方法がパイが大きくなったからウィンウィン・ソルーションである。これは交渉力を高める7つのポイントの「3.双方にとって有利な選択肢(オプション)を考え出す」であった[4]

 リーダーズキャンプの最後に参加者に「役に立ちましたか。来年もやって欲しいですか」と質問した。最初の質問はわたしにとってもイエスである。交渉やディベートや国際取引法の演習だけではなく、現在計画中の問題解決の授業をデザインするためにも、大変勉強になった。しかし、来年もやって欲しいという声が(無理強いを含めて)圧倒的だったが、交渉コンペの運営委員が第2回目を企画できるかどうかは自信がない。

 教育の目的や効果と関係なく、ますます多忙になる大学教授である。森下哲朗上智大教授らのエネルギーを持ってしても、日本の大学の置かれた状況は余りにも厳しい。政策の貧困により、日本の大学は100年かけて蓄積した知的資産を食いつぶしつつある。教員や大学の自助努力を超えている。政府はまったくあてにできない。日本から世界に通用する交渉者やディベーターを輩出するために、交渉コンペのOBOGや支援者の助力を期待したい。




[1] 大学対抗交渉コンペティションについては、公式ホームページ参照。http://www.osipp.osaka-u.ac.jp/inc/index.html
[2] 2010719日月曜日 「紛争、交渉、討論、対話、議論」 参照。http://nomurakn.blogspot.com/2010/07/blog-post_19.html
[3] 交渉コンペティションの審査基準は前掲注1の公式ホームページに最新のものが公開されている。現在なら、大会の記録 第8回大会の「問題・規則等」のページの最後に掲載されている。
[4] 2010617日木曜日 「交渉力を高める7つのポイント」参照。http://nomurakn.blogspot.com/2010/06/blog-post_17.html

2010年9月5日日曜日

多元社会における熟議の機能-サンデル教授に学ぶ

サンデル教授に学ぶ正義論の5日間のセミナーが昨日終了した。沢山の切り口を発見できたが、来週の実践法教育研究会に向けてどうまとめるか。

最近の政治状況では、菅直人首相がいう熟議による民主主義が重要だ。「国民が政治に参加するため、全員参加の政治、熟議の民主主義が必要だ」(92日民主党代表選の小沢一郎氏との討論会)。この発言は論理的ではないが結論はよい。多元社会で対立する価値観にどう折り合いをつければよいか。サンデル教授の例では、同性婚を認めるかどうか。参加と熟議がキーワードとなる。

意見の対立は、結婚の目的についての価値観の対立に起因する。生殖派、同意派と愛のきづな派、どれが正しいのか。私的な会話では相手の意見を尊重してそっとしておくことも選択肢である。しかし公共の問題は中立では解決できない。たとえば同性婚なら、それを国家が認めるか否か、それに法的保護を与えるべきかどうかが問題なのだ。

サンデル教授によれば、道徳的価値が対立する場面で相手を尊重するとは、相手を無視したりそっとしておくことではない。尊重するとは、相手を巻き込み参加させることである。対立する相手と深い議論を重ねて続けることで、ある場合には自分の意見を修正し、ある場合にはそれを補強することになる[1]。異なる意見に耳を傾けそこから学ぶ過程で、なにが正しいのかが見えてくるかも知れないというのである。

熟議(deliberation)による政治というだけであれば、伝統的な議会制民主主義が目指してきたことと変わらない。サンデル教授は、困難な問題について、なにが善いことなのかをみんなでよく考えること、みんなで熟議すること(public deliberation)を提唱する。英語の先生や政治学の先生には「間違っています」と言われるかも知れないが、サンデル教授の言葉を大阪弁でつぎのように表現してみよう。

困難な問題を人のせいにする政治(a politics of avoidance)ではあかん。なにをやらなあかんかをみんなで考えていく政治(a politics of moral engagement)のほうが理想として元気が出るやん。そのほうが正しい社会の基礎をつくっていけるんと違うやろか。


[1] ソクラテスやプラトンの対話の伝統に則っている。2010719日月曜日 紛争、交渉、討論、対話、議論http://nomurakn.blogspot.com/2010/07/blog-post_19.html参照。また、さまざまな角度から熟慮を重ねて均衡点に達するという方法は、ロールズの反省的均衡(reflective equilibrium)の方法である。

2010年8月24日火曜日

英語の"argument"を「議論」と訳してよいか



Ver.2010/08/24

「和ペディア」というサイトを見ていたら、「英語の"argument"にあたる日本語翻訳はあるのか」という投稿があった。やりとりが興味深く、最後になるほどと思う回答が示されていたので、私の解説付きで要点を紹介する。

「和ペディア」サイトのURLhttp://www.wa-pedia.com/で、質問者と発言者は、Maciamoさん、PaulTBさん、  Elizabethさん、 Poxさん そして CorDareiさん。

Maciamoさんは、英語の"argument"にあたる日本語翻訳はあるのだろうか」と問う。
原文:Is there no translation for (logical) "argument" ?

「議論」という言葉は何かを支持したり証明したりするときに用いる関係づけられた理由という意味で使われるが、この場合の「議論」の意味を日本語でどう表現すればよいのだろう。たとえば an argument for (or against) death penalty ?”はどう翻訳すればよいのだろう。

原文:How can we express the meaning of "argument",in the sense of a set of reasons given to support or prove something - e.g. an argument for (or against) death penalty ?

わたしの解説では、argumentを「議論」と訳してしまっている。議論という訳は、Maciamoさんの「何かを支持したり証明したりするときに用いる関係づけられた理由」という説明に一致する。議論の簡単な定義は、「理由をつけた主張」であり、これに対してディベートでも使える実践的な定義は「根拠と論拠に裏付けられた主張」[]であった。

「根拠と論拠」がどう違うのかは過去のブログを見ていただくとして(下記参照)、以上からも「argument=議論」という定義はおかしくない。では、an argument for (or against) death penaltyをどう訳すか。与えられた英文は次の通り。

" find 5 arguments for and 5 arguments against death penalty"

法学部の教授なら、「死刑に賛成する議論と反対する議論をそれぞれ5つ見つけてきなさい」という課題を出すかもしれないし、これは翻訳としておかしくはない。しかしこのサイトの最終的な翻訳はもっとわかりやすい。

死刑制度に対しての反対"意見"・賛成"意見"をそれぞれ 5つ見つけてこい。

部分的に見れば、argumentが「意見」になっているから、うるさい法学部の教授なら、これでは「根拠に裏付けられた主張」という議論の定義を表現していないではないかというかもしれない。では、「死刑制度に対しての反対"意見"・賛成"意見"をそれぞれ 5つ見つけてこい。」という課題を出されたら、学生はどう理解するだろうか。

反対意見や賛成意見というのだから、5人の学者が「死刑制度は維持されるべきだ」と主張し、別の5人の学者は死刑廃止論を主張しているという結果だけのレポートではよい評価はもらえないだろう。学生は、死刑制度を維持すべき理由、廃止すべき理由を述べた意見を見つけようとするのではないだろうか。もっとも、反対の理由や賛成の理由が福澤先生を満足させるような議論の条件[]を満たしていないかもしれない。しかし、「理由を示した主張」という議論の最低条件はクリアーしているのである。

もちろん、日常会話では、議論という言葉は論争や口論という意味でも使われる。Maciamoさんによれば、辞書ではつぎのような定義が与えられている。

原文:
議論 => argument in the sense of discussion or dispute
論争 => controversy, dispute, debate
口論 => argument in the sense of quarrel or dispute
論点 => main topic, major issue, point in question (at issue)
論拠 => the ground(s) of an argument
理由 => reason, cause; excuse, pretext

「議論」を「言い争い」と定義するのは、日常会話での意味を取り入れたものといえる。日本語でも英語でもそうだ。わたしの愛用する電子辞書にも、”We had an argument with the waiter about the bill.”(わたしたちはお勘定のことでウェイターと言い争いをした。)という例が載っている。ところが、” argument (for or against something)”と使う場合のつぎの定義は、議論そのものである。

“a reason or set of reasons that somebody uses to show that something is true or correct”
「何かが真実か正しいかを示すために用いられる理由または理由の組み合わせ」

この定義には「安楽死には強硬な賛成論と反対論がある。」(There are strong arguments for and against euthanasia.)という例文があげられている。安楽死や死刑制度という論題自体が堅くて深刻なものであるから、単に好き嫌いではなくきちんとした理由を挙げて意見を述べることが求められているのである。

このように、言葉の定義というのは目的や文脈によって異なる。わたしは、ディベート(議論を戦わすこと、討論)や交渉(合意や決定に達するために話し合うこと)や対話をよりよく学ぶという目的のために、実践的な定義を提案している。実践的な定義は、それぞれの「言語技術」を比較してその特徴と背景の理論を理解し、これらの技術を意識的に「使って」「練習する」(practice!) ためのものである。このため、実践的な定義は学問的、理論的な裏付けが必要である。通常の辞書の日常会話的な例文や定義で学んでいたのでは不十分なのである。

「和ペディア」でのやりとりの最後につぎの翻訳例文があげられていた。この例文での argumentの意味を考えてみてください。

"The grounds for your second argument are not valid"
君の二つ目の主張の"根拠"はおかしい。


[] 福澤先生やトゥルミンの定義である。後掲注2参照。
[] 議論の条件とは、「根拠(経験的事実)」から「主張(結論)」が導き出されており(根拠→だから→主張)、根拠と主張を結びつける「論拠」(一般的な了解事項や法則)が示されていることである。ブログ「紛争、交渉、討論、対話、議論」2010719日月曜日http://nomurakn.blogspot.com/2010/07/blog-post_19.html参照。

2010年8月9日月曜日

コンビニから医院へ

昔個人商店がチェーン店に変わっていった。今はコンビニなどの跡地に医院や歯科医院ができている。これはどうしてだろう。豊中だけの現象なのだろうか。チェーン店は基本的に個人事業である。下位のチェーンでは本部との契約(1年)が更新されないことが多い。医院よりも経営が厳しいからかもしれない。

コンビニなどは基本的に個人事業者がチェーン本部とフランチャイズ契約(契約期間1年)を結んで商売する。たとえばセブンイレブンの商標(7とELEVENの組み合わせ)の使用許諾を受けて商売するのである。業態毎の契約内容は「ザ・フランチャイズ」というサイトに公表されている。http://frn.jfa-fc.or.jp/ 

業界下位のチェーンは、上位のチェーンに比べると、このフランチャイズ契約が解約されたり更新されなかったりする率がはるかに大きい。おもしろいことに、上記サイトに公表された契約内容の説明は、上位のチェーンほどわかりやすくごまかさないで書かれているような印象を受ける。

わかりやすさは、情報過多で複雑な社会で事業の成否を占う鍵となりうる。もちろん、単調な「いらっしゃいませ。こんにちは」を連発するコンビニは、チェーン本部の鈍さを象徴しているともいえるのだが。

2010年7月29日木曜日

東洋的思惟と西欧的思惟の対決

東洋的な思惟方法と西欧的な思惟方法は異なるのだろうか。紀元前2世紀頃に成立したと考えられる仏教書(注1)は、東洋的な思惟と西欧的な思惟がディベート(討論)によって対決し、最後に仏教が勝利する様子が見事に描かれている。

ギリシャ人の王ミリンダは議論に強いことで有名であった。高名な仏教の修行者に論争を挑んではやり込めてしまい、「インドには大した人物がいない。インドは空っぽである」とうそぶく始末であった。ミリンダ王が「だれかおらんのか」というのでナーガセーナが紹介されるのだが、ここでも「理由や原因や方法によってわたしを納得させよ」と迫る。ミリンダ王はナーガセーナとの長いディベートを経て最後に納得し、仏教に帰依するという話である。

2人とも実在の人物のようであるが、このディベートが実際に行われたかどうかはわからない。しかし、インドの高僧がミリンダ王に突っ込まれたら黙ってしまったり、仏教も権威ではなく理由や原因や方法によって納得させないと信じないというミリンダ王の態度からは、現代の日本人も学ぶところが多い。特に、「議論が仕事の人に議論のスキルがないのは職務怠慢だ」(注2)と言われている日本の政治家やジャーナリストなどは、2000年の遅れを取り戻すために修行を積んで欲しい。

(注1)中村元・早島鏡正訳『ミリンダ王の問い(1)~(3)』(平凡社、1963年、1964年)。特に1巻76頁以下および3巻94頁以下参照。
(注2)福澤一吉『議論のルール』(NHKブックス、2010年)参照。14-24頁を読めば、大学の先生より爆笑問題の方が議論のレベルが高いことがわかる。職務怠慢である。

2010年7月19日月曜日

紛争、交渉、討論、対話、議論

定義とは、概念を他の概念と区別する要素を明らかにすることである。20010521Twitterに、定義は概念を持ち運び可能にすると書いた。交渉、対話、ディベート(討論)および議論という概念は、民主主義の実践になくてはならないものである。以下ではこれらの重要な概念を持ち歩いて意識的に用いることができるように、実践的な定義を提案したい。


(1)紛争とは、

 ①利益や価値に関する対立であって(利害対立

 ②一方からの要求が他方に拒絶された(主張対立)ものである

(2)交渉とは、

 当事者間に利害対立がある場合に、合意または共同の決定に到達するための、伝え合い(コミュニケーション)のプロセスである

(3)ディベート(討論)とは、

 特定の命題について、肯定側と否定側(利害対立・主張対立)が理由を伝え合い(コミュニケーション)議論の優劣を競うプロセスである

(4)対話とは、

 意見や利害を異にする人同士(相違)が、お互いの変容を受容しつつ行なう、伝え合い(コミュニケーション)プロセスである。


5)議論とは、

理由を示して結論を述べることである。

例1 人間はみんな死ぬもんや。あんたも人間やないか。そやからあんたも死ぬんやで。 

例1は、まずみんなが受け入れられる一般的法則など(人は死ぬ)を正当化の論拠に持ち出し、つぎにそこに目の前の事実(あなたも人だ)を根拠としてあてはめて、最後に結論(あなたも死ぬ)を導き出す議論の形である。三段論法と呼ばれる。


 説得的な議論は、一般的な論拠と事実的な根拠に支えられた主張(結論)からなる(図2参照)。



以上の(1)および(2)から、紛争がなくても当事者間で利害対立があれば利害調整のために交渉が利用できることがわかる。(5)の定義によれば、議論がなくても交渉はできるが、議論はディベートでは不可欠なことがわかる。
もちろん、理由を示した主張(議論)がない交渉は生産的ではないし、交渉で説得的な議論をしようとすれば、目の前の事実を根拠にあげるだけではなく、できるだけ一般的な法則や基準を論拠に持ち出す必要がある。
交渉と(3)のディベートとは親近性が高いが、ディベートと(4)の対話とは共通点が少ない。しかし、ディベートと対話の間には、こちらと相手に相違があることおよび相互の伝え合い(コミュニケーション)であることという共通の要素がある(図1参照)。
 最後に、交渉、ディベートおよび対話は、現実に相手がいることが重要である。もちろん想定問答のようなディベート架空の相手との対話はありうる。しかし(5)の議論は、本の中の議論のように、現実の相手がいなくても成立する。もっとも本も読者を説得するために議論しているともいえるが、議論の重点は自分の主張を述べるところにあり、相手との相違や伝え合いは不可欠の要素とはいえないのである。
 以上については、次の論文を参照。 
野村美明「紛争解決過程における交渉概念と討論・議論・対話の概念」『仲裁とADR216-29(2007)



図1



図2