2011年2月17日木曜日

法的議論と議論の構造

交渉コンペティションシンポジウム「ディベートと法教育―議論がかみ合うとはどういうことかをきっかけに、論理学などでいう議論と法的議論との関係を例示してみた。


1.伝統的な議論の形

伝統的な議論の形は形式論理学で見られる。たとえばつぎの「三段論法」が有名である。

No.1
大前提:人間はみな死ぬ[1]。略称R
小前提:ソクラテスは人間だ。   略称F
結論:(だから)ソクラテスは死ぬ。略称C

1段目の「人間はみな死ぬ」という命題は、大前提と呼ばれる。一般法則のようなものだ。2段目の「ソクラテスは人間だ。」は小前提と呼ばれる。目の前にある事実、観察できるデータといってもよい。3段目の「ソクラテスは死ぬ。」は結論である。

大前提、小前提及び結論を短く表現するために、つぎのような省略記号を使おう。1段目の一般的な法則をあらわす大前提は、ルールの頭文字をとって「R」、2段目の前提を事実つまりファクトの「F」、最後の結論はコンクルージョンでもクレイム(主張)でもよいので「C」とそれぞれ略称するのである。

形式論理学で「論理的に正しい」議論とは、前提(RF)から結論(C)が「論理必然的に」導かれるような議論のことである。つまり、形式論理学では、論理的に正しい議論とは、前提(RF)が結論(C)とつぎのような関係を有すると定義される。言い換えれば、「もしRおよびFという前提が仮に「真」だとすれば、Cという結論も真として受け入れる説得的な理由となる」というような関係である。

しかし、現実の議論はこのように「論理必然的」といえないことが多い。つぎの法的議論をみてみよう。


2.法的な議論の形

法的な議論の典型は、実際の裁判で用いられている議論の形である。このため、判決三段論法と呼ばれる。

No.2

R:人を殺した者は死刑になる。
F:ソクラテスは人を殺した。
C:(だから)ソクラテスは死刑にされるべきだ。

判決三段論法は、No.1の形式論理学の三段論法の応用であることがわかるだろうか。しかし、形式論理学とは違って、RFの前提自体もあいまいだし、前提から結論が必ず導かれるわけでもない。

形式論理の例では「人間はみな死ぬ」という大前提は、だれでも受け入れられる法則であった。では「人を殺した者は死刑になる」という前提はどうだろうか。まず、死刑が廃止になっている国ではそうはいえない。では日本ではどうか。日本の刑法199条では、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と定められている。しかし、人を殺しても無期刑や懲役刑になるかもしれない。したがって、正確には、「人を殺した者は死刑になる可能性がある」とか「人を殺した者は原則として死刑になる」というべきである。

もっと正確には、「人を殺した者は、無期刑や懲役刑にならない場合には、死刑になる」というべきかもしれない。しかし、これでは文章が複雑すぎて論理の構造がわからなくなるので、以下では「人を殺した者は死刑になる」という前提が正しいと仮定して考えてみよう。

「人を殺した者は死刑になる」という前提が一般法則として受け入れられるとしても、つぎの小前提の「ソクラテスは人を殺した」という事実はそんなに確実ではない。多くの裁判では、ソクラテスが本当にその人を殺したかが一番の問題点にされるのである。

しかし、「ソクラテスは人を殺した」ことが事実であると仮定したとしても、だからソクラテスが死刑になるという結論が常に導かれるわけではない。ソクラテスの行為が正当防衛(刑法36条)であったり、ソクラテスが責任無能力者(刑法391項、41条)である場合には、罰されないからである。

以上のように、判決三段論法のような実際の議論の構造は、大前提と小前提の確からしさも、そこから結論を導ける確からしさも、No.1形式論理学に比べて劣っている。そもそも現実の議論を「三段論法」であらわすのが無理なのである。有名な哲学者のトゥールミン[2]は、実際の議論の構造が形式論理とは異なることを示すために、法的な議論を用いて説明した。


3. 哲学的な議論の例
トゥールミンが用いた次の有名な例をみてみよう[3]

No.3


R:バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。
F:ハリーはバミューダで生まれた。
D:(だから)ハリーは英国人である。

この構造は、No.2の法的議論そのものである。したがって、三段論法の各段階について判決三段論法と同じあいまいさがある。もっとも怪しいのは大前提の法則性である。

大前提は「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」とされており、「原則として」が入っている。しかも日本の法律家には、「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」という命題の法則性が理解できない。なぜなら、日本で生まれた者でも父または母が日本人でないと原則として日本人にはならないからである[4]。「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というのは、英国の国籍に関する法律[5]の裏付け(バッキング)があって初めて受け入れられる命題なのである。

しかし、裏付けとなる英国の国籍法にも例外がある。すなわち、バミューダで生まれた者であっても、両親が共に外国人である場合やアメリカに帰化した場合には、英国人とはならない。だから「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というように、「原則として」が入っているのである[6]

「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という論理を支えているのは、なぜなら「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる」からだという論拠である。しかも、論拠には裏付けがないと信頼性を欠くし、論拠自体にも例外が存在することにも注意する必要がある。

トゥールミンは、「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という議論は、次のような構造を持って初めて受け入れられるようになると主張したのである(下記図参照)。


図 議論の構造と法的議論


以上のようなトゥールミンの主張を法律家の視点で言い換えれば、つぎのようになる。「ハリーは英国人である」とか「ソクラテスは死刑にされるべきだ」とかという「結論」はすべて法的な主張である。すなわち、法的な主張は法的な議論の結論であり、法的な議論は法令の裏付けがあるルール(法規範)で支えられられ(論拠を与えられ)ないと成り立たないという性質を持っている。同様に、その他の実際的な議論も、裏付けのある法則によって支えられていないと成り立たないし、法則には例外(主張に対する反論)があるという点も押さえておかないと、議論としての説得力が弱くなる。

法的な議論は法規範によって正当化されているから、最終的には国家の権威や強制力によって支えられているといえる。したがって、法規範の保護が及ばない(または及ぼすべきでない)私的な関係や外国での出来事においては、法的な議論が通用しない場合がある。

ソクラテスは、国家の信奉する神々を信奉せず、別の新奇な神霊を信奉し,かつ青年たちを腐敗させたので死罪になった。このときに死罪を主張した側とソクラテスとの間の議論は、プラトンの『ソクラテスの弁明』で再現されている[7]。ソクラテスは現在の日本では死刑にはならないだろう[8]。法的な議論に限らず、社会が異なると議論を正当化する論拠も異なるのである。



[1] 英語ではmortalつまり「immortal不死」ではないと表現する。
[2] Stephen Edelston Toulmin, The Uses of Argument, Cambridge U. Pr.1958.2003.
[3] 福澤一吉『議論のレッスン』65頁以下(2002)参照。
[4] 国籍法2条参照。
[5] バミューダは英国の海外領なので、英国の国籍法が適用される。ただし、バミューダ自体は立法権、自治権を持っているから、外国企業には法人税をゼロにするなどの法律を制定して投資を呼び込んでいる。
[6] 日本の国籍法とは原則が違うことに気がつくだろう。日本は父母の血統主義を原則とし、英国は生地主義を原則とする。米国はどうだろうか。
[7] プラトン『ソクラテスの弁明』http://page.freett.com/rionag/plato/apology.html
[8] 日本でも、人を殺さなくても死刑になる場合がある。刑法81条(外患誘致罪)参照。

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