演奏家でもあるハイフェッツは、しばしばリーダーシップで音楽の比喩を用いる。演奏家と聴衆との関係について、プラトンのつぎの引用がある。「相反する受け止め方があるから、熟考が呼び起こされるのである」。ところが、ほかのギリシャ語からの英訳ではニュアンスが異なる。続きはブログで。
件の引用は、演奏会では聴衆は受身だと思いがちだが実はそうではないという文脈で使われている。演奏家とのつながりが演奏を創る、人はあるものの他のものとの関係から創造するからだという[1]。
ハイフェッツが引用したCornford訳(引用部分に下線を付する)はつぎのようである。
“Well then, that is the distinction
I was trying to express just now, when I defined as provocative of thought
impression of sense in which opposites are combined; whereas, if there is no
contradictory impression, there is nothing to awaken reflection.[2]”
ネットで見られるBenjamin Jowett訳は次の通り(下線が該当部分)。日本語で表現すれば、「同じ事象の中に対立する印象が混在しているような場合に、思考は喚起される」となるかな。
“This was what I meant when I spoke of
impressions which invited the intellect, or the reverse --those which are
simultaneous with opposite impressions, invite thought; those which are not
simultaneous do not.[3]”
ハッチソン社のプラトン全集の英訳もJowett訳に近い。下線部を日本語に翻訳すると次のような感じか。「1つの意味とそれと相反する別の意味が想起されるような事象が、思考を喚起するものである。相反する意味が想起できないような事象は、理解を覚醒させることはない。」
“This, then, is what I was trying to express before, when I said that some things summon thought, while others don’t. Those that strike the relevant sense at the same time as their opposites I call summoners, those that don’t do this do not awaken understanding[4]”
以上は、翻訳によって読者に与える印象がまったく異なる例である。誤訳のほうが読者に強い印象を与えることもあるかもしれない。昔の教養人ならギリシャ語で読めたかもしれないが[5]。ここでは英語から日本語への訳も介在しているから、プラトンが本当に何を考えていたかはよくわからない[6]。
[1] Ronald A. Heifetz, Leadership Without Easy Answers, 6 (Belknap
Press of Harvard U. Press, 1996) at p.6 and note 7 at p.279. ロナルド・A・ハイフェッツ/幸田シャーミン訳『リーダーシップとは何か!』(産能大学出版部1996年)。
[2] The Republic of Plato,Translated with Introduction and Notes by Francis
Macdonald Cornford [Book XII 524 d.] p.240 (Oxford: OUP, 1941).
[3] The Republic by Plato, Translated by Benjamin Jowett, BOOK VII Socrates
– GLAUCON, http://classics.mit.edu/Plato/republic.mb.txt.
[4] The Republic Book XII 524 d.,Translated by G. M. A. Grube, revised
by C. D. C. Reev,In Complete Works, Plato ,Edited by John M. Cooper, Associate
Editor D. S. Hutchinson, 1997 - 1,838 pp.
[5] ジョン・スチュアート・ミル(John
Stuart Mill, 1806 - 1873)は少年時代にギリシャ語でプラトンの国家を読んだ(教育パパのジェームズ・ミルにラテン語やギリシャ語の古典を読まされた)という。Autobiography of John
Stuart Mill : Published from the Original
Manuscript in the Columbia University Library, (1924) p.15.ネットでも読める。http://www.gutenberg.org/cache/epub/10378/pg10378.html
[6] 古典の翻訳は本当に難しいが、聖典の翻訳はさらに困難である。弘法大師空海が「真言は不思議、・・・一字に千里が含まれる・・・」(眞言不思議
觀誦無明除 一字含千理 即身證法如)と解釈したのも無理はない。般若心經祕鍵(No.2203-A)、SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版、http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php. 聖書の翻訳について、「根拠を示して発言するということ」を参照。http://nomurakn.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html
0 件のコメント:
コメントを投稿