2010年5月21日金曜日

弁護士と法学者の対話

実践法教育研究会での議論がきっかけとなって、メンバーの大澤弁護士と早稲田の福澤先生とでメールのやりとりをした。学ぶところが多かったので、大澤先生との対話の部分を紹介したい。


大澤先生は常々、研究者に「実務家や社会に影響を与えるように、分かりやすく語って欲し い」といわれる。研究者としては「すみません」と言わざるを得ない。やりとりのなかでロールズの正義論への言及や費用便益分析に対する批判があったので、わたしはつぎのような告白をしている。

この5年ほど同僚や学会仲間を観察して、日本の文系の学者の議論がわかりに くいのは、伝えたいという思いが弱いからではないかと思うようになりました。

たとえば、[法と経済学]の最初の業績であるRonald Coase, "The Problem of Social Cost." Journal of Law and Economics 3 (October 1960): 1-44.(正 確には1959年の"The Federal Communications Commission")は大論争を巻き 起こし、当時のシカゴ大学の経済学者らとの議論の様子が「結局コースの意見 に全員賛成する結果となった」として知的興奮とともに伝えられています。


の論文がノーベル賞のもとになるのですが、日本にはその興奮は伝えられてい ません。ちなみにこの論文はまた法と経済学の始まりで、100歳になるコース は今でもシカゴ大学ロースクール!の教授のはずです。ロールズも欧州では知 的興奮を与えるようなのですが、日本の翻訳者のしおりでは何でこんな辛気く さい議論をしなければいけないのか理解できないと嘆いています。

というわけで、わかりにくいのは外国製の学問が持っていた知的興奮や社会 に対する強い問題意識を共有しないで「外国のはやり」に対するファッション 的な関心だけで内容を伝えようとするからだと思います。なんのために伝える のかがわからない人に「わかりやすく語ってほしい」というのは無い物ねだり かもしれません。


たとえばGregory MankiwPrinciples of Microeconomics "Preface: To the Instructor"をアマゾンででもお読み下さい。マンキュー は、自分がこの本を書いたのは、大学一年の時の経済学の授業で受けた興奮 (それが人生を変えたといえる)を少しでも伝えたいからだと書いています。

福澤先生は[ディベート、議論の仕方を教える以前の問題として]「根源的モチベーションのようなものが今の大学生にはないよう な気がしてなりません。」と言われますが、問題はもっと深いのかもしれませんね。[*教えることにマンキューほどの情熱をもった学者が日本にもいたら、法と経済学(法の経済分析)がもっと発展するのに・・・[]内は事後的コメントです。]



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