2011年4月27日水曜日

交渉の第6ポイント コミットメントを利用する例

2010617日木曜日交渉力を高める7つのポイントhttp://nomurakn.blogspot.com/2010/06/blog-post_17.htmlでは、
6ポイントをつぎのように説明した。

6 確約(コミットメント)の仕方を工夫する
○こちらが何をするかを明確に示す。
○相手に何をしてほしいかを明確に示す。

以下では、例を補足しながらコメントする。

Fisher [1991]は、確約の例として、人を雇いたいときに、こちらから明確なオファーをして、相手がイエスといえば合意成立という状態にすることをあげた。交渉の授業では、日本の次の例を用いることがある。

開発事業で立退を拒む地権者の家に出かけて目の前でテーブルの上に札束を積み上げると、ほとんどがイエスという。

太田勝造先生があげられている「背水の陣」もわかりやすい。背水の陣で味方に決死の覚悟をさせて敵を破った『史記』の逸話である。太田勝造「交渉のゲーム論」太田・野村[2005139頁。自分が特定の選択肢にコミットしたことを相手に明確に伝えるようなコミットメントのことを、「信用できるコミットメント」(credible commitment)という。

学生には、メールの例がわかりやすい。相手にメールを読んでもらい、返信してもらうためにはどう書けばよいかを練習するのである。

メールを書くときに、イエスかノウか、○か×かで答えられるように工夫すると、返答率が高いのもコミットメントのテクニックの応用である。「ワンクリック詐欺」はこれが悪用された例である。

こちらの交渉力を高めるためには、相手が「信用できるコミットメント」を提示すればよいだ。こちらのコミットメントで相手が動くのは、コストベネフィット分析の応用としても説明できる。つまり、相手の費用を下げ効用を上げるのである。通常は効用を上げるより費用(時間、労力)を下げる方が簡単である。これはメールの書き方に応用できる。反対に、メールを例にして交渉を教えることも可能だ。


参考文献
1.Fisher, Ury & Patton, Getting To Yes (Penguin, 2d ed., 1991)(Fisher [1991])日本語訳:金山宣夫、浅井和子訳『新版ハーバード流交渉術』(ティービ-エス・ブリタニカ、1998
2.太田勝造・野村美明編『交渉ケースブック』(商事法務、2005年)(太田・野村[2005])

2011年3月18日金曜日

演劇ワークショップ入門-コミュニケーション力を引き出す

コミュニケーション力を「引き出す」演劇ワークショップとはどんなものだろう。その入門を劇作家・演出家の大阪大学の蓮行先生に実演してもらった。

木川田先生による元気を「引き出す」ワークショップ型授業とともに、押しつけるのではなく引き出す授業の効果を学校や職場でぜひ試してもらいたい。

くわしくはつぎの書物を参照。

☆平田 オリザ・蓮行『コミュニケーション力を引き出す 演劇ワークショップのすすめ』 (PHP新書、2009年)

以下の説明は、KDほかKTゼミ生制作によるパワポにnomuraknが補足して作成したものである。

















2011年3月10日木曜日

私心を捨てるということ-Obliti Privatorum

前原外務大臣は外国人政治献金問題で、「私心を捨てて」辞任した。私心を捨てて公務にあたれ"Obliti Privatorum - Publica Curata"。ラテン語でクロアチアのドゥブロヴニク旧総督府の碑文にある(下の写真参照)。15世紀頃に広まった政治家の「理想」を表す標語らしい。

鳩山邦夫総務大臣とのバトルで有名になった日本郵政の西川善文前社長にリーダーシップで一番重要なことは何かときいたら、迷わず「私心を捨てること」だと答えた。氏は大銀行の頭取を8年間も務め、日本郵政社長としても鳩山大臣が辞任させられたのに自分は踏みとどまった。私心を捨てることは西川流の打たれ強さやしぶとさの源泉であるようだ。

私心を捨てることは信頼されるリーダーの評価基準になるのではないか。たとえば、民主党政権の鳩山由紀夫前首相や菅直人首相は私心を捨てているように見えるだろうか[1]

ところで、"Obliti Privatorum - Publica Curata" (forget private affairs - look after the public causes)という碑文があるドゥブロヴニクの旧総督府は、この地方がドゥブロヴニク共和国(ラグサ共和国)であった時代の遺物である。旧総督府は12世紀に建設(15世紀に再建)された。共和制時代の元首が総督(Rector)である。総督は、一ヶ月間の任期で選挙で選ばれたそうだ[2]。任期1ヶ月では私心を介在させる余地はなかっただろう。


  
1.(注3文献より転載) Rectors Palace, former entrance to the Major Council Hall (photograph: Nenad Gattin)

"Obliti Privatorum - Publica Curata"という言葉がどこから来たかについては諸説がある。プラトンやキケロという説もあるようだが、15世紀頃の西欧で広く流布していた警句からとられたという見解が説得的である[3]



[1] 私心を捨てたように見えるというのはどのような状態なのだろうか。これは演技と本質の関係を含め今後色々な分野の人との対話によって明らかにしていきたい。
[3] NELLA LONZA,"OBLITI PRIVATORUM PUBLICA CURATE:A RAGUSAN POLITICAL EPIGRAPH AND ITS HISTORICAL BACKGROUND," Dubrovnik Annals 11 (2007): 25-47.

2011年2月17日木曜日

法的議論と議論の構造

交渉コンペティションシンポジウム「ディベートと法教育―議論がかみ合うとはどういうことかをきっかけに、論理学などでいう議論と法的議論との関係を例示してみた。


1.伝統的な議論の形

伝統的な議論の形は形式論理学で見られる。たとえばつぎの「三段論法」が有名である。

No.1
大前提:人間はみな死ぬ[1]。略称R
小前提:ソクラテスは人間だ。   略称F
結論:(だから)ソクラテスは死ぬ。略称C

1段目の「人間はみな死ぬ」という命題は、大前提と呼ばれる。一般法則のようなものだ。2段目の「ソクラテスは人間だ。」は小前提と呼ばれる。目の前にある事実、観察できるデータといってもよい。3段目の「ソクラテスは死ぬ。」は結論である。

大前提、小前提及び結論を短く表現するために、つぎのような省略記号を使おう。1段目の一般的な法則をあらわす大前提は、ルールの頭文字をとって「R」、2段目の前提を事実つまりファクトの「F」、最後の結論はコンクルージョンでもクレイム(主張)でもよいので「C」とそれぞれ略称するのである。

形式論理学で「論理的に正しい」議論とは、前提(RF)から結論(C)が「論理必然的に」導かれるような議論のことである。つまり、形式論理学では、論理的に正しい議論とは、前提(RF)が結論(C)とつぎのような関係を有すると定義される。言い換えれば、「もしRおよびFという前提が仮に「真」だとすれば、Cという結論も真として受け入れる説得的な理由となる」というような関係である。

しかし、現実の議論はこのように「論理必然的」といえないことが多い。つぎの法的議論をみてみよう。


2.法的な議論の形

法的な議論の典型は、実際の裁判で用いられている議論の形である。このため、判決三段論法と呼ばれる。

No.2

R:人を殺した者は死刑になる。
F:ソクラテスは人を殺した。
C:(だから)ソクラテスは死刑にされるべきだ。

判決三段論法は、No.1の形式論理学の三段論法の応用であることがわかるだろうか。しかし、形式論理学とは違って、RFの前提自体もあいまいだし、前提から結論が必ず導かれるわけでもない。

形式論理の例では「人間はみな死ぬ」という大前提は、だれでも受け入れられる法則であった。では「人を殺した者は死刑になる」という前提はどうだろうか。まず、死刑が廃止になっている国ではそうはいえない。では日本ではどうか。日本の刑法199条では、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と定められている。しかし、人を殺しても無期刑や懲役刑になるかもしれない。したがって、正確には、「人を殺した者は死刑になる可能性がある」とか「人を殺した者は原則として死刑になる」というべきである。

もっと正確には、「人を殺した者は、無期刑や懲役刑にならない場合には、死刑になる」というべきかもしれない。しかし、これでは文章が複雑すぎて論理の構造がわからなくなるので、以下では「人を殺した者は死刑になる」という前提が正しいと仮定して考えてみよう。

「人を殺した者は死刑になる」という前提が一般法則として受け入れられるとしても、つぎの小前提の「ソクラテスは人を殺した」という事実はそんなに確実ではない。多くの裁判では、ソクラテスが本当にその人を殺したかが一番の問題点にされるのである。

しかし、「ソクラテスは人を殺した」ことが事実であると仮定したとしても、だからソクラテスが死刑になるという結論が常に導かれるわけではない。ソクラテスの行為が正当防衛(刑法36条)であったり、ソクラテスが責任無能力者(刑法391項、41条)である場合には、罰されないからである。

以上のように、判決三段論法のような実際の議論の構造は、大前提と小前提の確からしさも、そこから結論を導ける確からしさも、No.1形式論理学に比べて劣っている。そもそも現実の議論を「三段論法」であらわすのが無理なのである。有名な哲学者のトゥールミン[2]は、実際の議論の構造が形式論理とは異なることを示すために、法的な議論を用いて説明した。


3. 哲学的な議論の例
トゥールミンが用いた次の有名な例をみてみよう[3]

No.3


R:バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。
F:ハリーはバミューダで生まれた。
D:(だから)ハリーは英国人である。

この構造は、No.2の法的議論そのものである。したがって、三段論法の各段階について判決三段論法と同じあいまいさがある。もっとも怪しいのは大前提の法則性である。

大前提は「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」とされており、「原則として」が入っている。しかも日本の法律家には、「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」という命題の法則性が理解できない。なぜなら、日本で生まれた者でも父または母が日本人でないと原則として日本人にはならないからである[4]。「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というのは、英国の国籍に関する法律[5]の裏付け(バッキング)があって初めて受け入れられる命題なのである。

しかし、裏付けとなる英国の国籍法にも例外がある。すなわち、バミューダで生まれた者であっても、両親が共に外国人である場合やアメリカに帰化した場合には、英国人とはならない。だから「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる。」というように、「原則として」が入っているのである[6]

「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という論理を支えているのは、なぜなら「バミューダで生まれた者は原則として英国人となる」からだという論拠である。しかも、論拠には裏付けがないと信頼性を欠くし、論拠自体にも例外が存在することにも注意する必要がある。

トゥールミンは、「ハリーはバミューダで生まれた」、だから「ハリーは英国人である」という議論は、次のような構造を持って初めて受け入れられるようになると主張したのである(下記図参照)。


図 議論の構造と法的議論


以上のようなトゥールミンの主張を法律家の視点で言い換えれば、つぎのようになる。「ハリーは英国人である」とか「ソクラテスは死刑にされるべきだ」とかという「結論」はすべて法的な主張である。すなわち、法的な主張は法的な議論の結論であり、法的な議論は法令の裏付けがあるルール(法規範)で支えられられ(論拠を与えられ)ないと成り立たないという性質を持っている。同様に、その他の実際的な議論も、裏付けのある法則によって支えられていないと成り立たないし、法則には例外(主張に対する反論)があるという点も押さえておかないと、議論としての説得力が弱くなる。

法的な議論は法規範によって正当化されているから、最終的には国家の権威や強制力によって支えられているといえる。したがって、法規範の保護が及ばない(または及ぼすべきでない)私的な関係や外国での出来事においては、法的な議論が通用しない場合がある。

ソクラテスは、国家の信奉する神々を信奉せず、別の新奇な神霊を信奉し,かつ青年たちを腐敗させたので死罪になった。このときに死罪を主張した側とソクラテスとの間の議論は、プラトンの『ソクラテスの弁明』で再現されている[7]。ソクラテスは現在の日本では死刑にはならないだろう[8]。法的な議論に限らず、社会が異なると議論を正当化する論拠も異なるのである。



[1] 英語ではmortalつまり「immortal不死」ではないと表現する。
[2] Stephen Edelston Toulmin, The Uses of Argument, Cambridge U. Pr.1958.2003.
[3] 福澤一吉『議論のレッスン』65頁以下(2002)参照。
[4] 国籍法2条参照。
[5] バミューダは英国の海外領なので、英国の国籍法が適用される。ただし、バミューダ自体は立法権、自治権を持っているから、外国企業には法人税をゼロにするなどの法律を制定して投資を呼び込んでいる。
[6] 日本の国籍法とは原則が違うことに気がつくだろう。日本は父母の血統主義を原則とし、英国は生地主義を原則とする。米国はどうだろうか。
[7] プラトン『ソクラテスの弁明』http://page.freett.com/rionag/plato/apology.html
[8] 日本でも、人を殺さなくても死刑になる場合がある。刑法81条(外患誘致罪)参照。

2011年2月1日火曜日

グローバルリーダーシップ2010-授業のひとこま

「実践グローバルリーダーシップ」の授業では学生達とのやりとりでなるほどと思うことが多かったのだが、ちょうど南部さんのブログに正確に採録されていたので紹介しよう。

2010
年度1124日第7回目「NPOとグローバルリーダーシップ」

野村先生は、「いまどきの若者は元気がないと言われているが、果たしてそれは本当なんだろうか」と問題提起されました。

受講者から
「若者は元気がないと言われているが、学びあい引き出す場と機会があれば元気になる」
「みんなで教えあうチームワークが発揮できれば、元気になる」
「みんなに共通する目的があれば、元気になる」
「自分と違ったものに出会ったとき元気が出る。日本はみんな一緒だから主張する必要がない」
問題が降りかかってくると元気になる場ができる。普段は問題がないから元気が出ない」など様々な意見が出ました。

野村先生は
「思いが集まる場があれば元気になれると思うので、その場を作ることが大人の責任ではないか。他人のために何かをしたいという意識が自分の元気を倍増させると自分は考えています」とお話されていました。



「NPOとグローバルリーダーシップ」というテーマは、「学び合い主体性を引き出す場と機会を与えたい」という思いで大学でリーダーシップ・プログラムを立ち上げ、これを社会に(グローバルに!)広げるためにNPOをつくったというストーリーである。

授業の結びは、シニア市民も若い市民も、それぞれが自分の考えるグローバルな課題に取り組むために、NPOやグループや会社をつくって実践していけば、日本の市民社会も活性化していくのではないかというものであった。

でもNPOでの実践だけで首相になると日本国債の格付けが下がったという意味もわからないかも。ダボス会議でも日本の首相の言葉は説得力がなかったと思う。グローバルなリーダーシップを発揮するためには、継続的な学習による教養に裏付けられた説得力が必要なのである。

2010年11月12日金曜日

自分の姿が相手に反射する-共鳴のリーダーシップの構想(2)

最近の若い社員は元気がないとか主体性がないとかいう企業人が多いが、実は自分の姿の反射を見ているのではないだろうか。相手によって胸襟の開き加減が違うという清水良典氏の発言[1]や、教える授業は潜在的に主体性のある学生を受け身にさせるという木川田一滎教授の問題提起[2]とも共通点があるようだ。

最近の若い社員は元気や主体性がないという企業人の嘆きをよく聞く。昔はみんな勇んで留学や外国駐在に出かけたのに、どうしたのかというのである。大学教員もまったく同じように嘆いているのだから、本当に日本の若者は元気がなくなったのかと思ってしまう。ここで大学の教育が悪いとか家庭の育て方に問題ありだとかと評定するのではなく、元気がないという人自身に原因があるとは考えられないだろうか。

大学で教えていると、確かに最近の学生はまじめに授業に出てくるし、おとなしいという印象を受ける。居眠りするくらいなら下宿でゆっくり寝てればよいのに、と授業をさぼりまくった自分の青春時代と比較してしまうのである。しかし、この9年ほど大学対抗交渉コンペティションを運営してみて、学生が物事に取り組む強い意欲と進化の早さに圧倒され続けているのもまた事実である[3]。コンペティションの審査員として協力してくださっている企業や法曹の人々も、ほとんどが最近の学生はすごい、日本の未来は明るい、学生にパワーをもらったという感想を寄せられている[4]。これはどういうことだろうか。

発想の転換とは、自分の態度が相手に影響を与えているのではないかと気づくことである。自分の姿が相手に反射するといったのはこの意味である。しかし、イケイケドンドンの企業人はここで異議を唱えるだろう。「わたしは上司にも堂々と意見を言ったものだ。君たちも頑張れ」と励ますのだが、いっこうに効果がないと。ここで相手の立場に立って考えて欲しい。元気な上司に「言いたいことがあれば何でも言ってみなさい」と言われて発言したら飛ばされたというコマーシャルもあったくらいなのだから。

それでも「僕の若い頃は上司に直言したものだ」という社長がおられたら、それは自慢なのか上司に恵まれていたのか、それとも上司を含めて運がよかったのかもしれない。つまり、希有な例だったかも知れないのである。希有な存在ならば、会社もたまたまその社長の下で元気になるだけだろう。しかし、運にまかせるだけでは組織や社会の持続可能な活力は生まれてこない。大勢の若者が元気な力を秘めているとすれば、教育によって潜在的な力を引き出すことを考えるべきではないだろうか。

発想の転換の参考になるのが、木川田一滎教授が試みられているワークショップ型の授業である。木川田メソッドの基本的発想は、学生はもともと主体的に考え、発言し、行動する力があるのに、教える授業によって彼らを受け身にさせてしまっているというものである[5]。木川田教授は、知識や経験のない人に教えてやろうという「講義」ではなく、若い知を育むワークショップ型授業を実践しようと呼びかけられている。木川田式ワークショップを見学して、確かに学生の主体性を引き出すことができると実感した[6]。もっとも必要なのは、教師が態度を「Change」することである。あとは、少々の訓練と創意工夫で学生の主体性を表に出すことができる。若者の元気を奪っているのは、上司の「講義」なのである。

自分の態度が相手に影響を与え、相手の態度が自分にはね返ってさらなる態度を形成する。相手がよい態度をとってくれれば、それは自分だけではなく、相手の周りにも影響を与え、組織や社会を活性化していく。これが「共鳴のリーダーシップ」の基本的な発想である[7]。このようなリーダーシップの考え方は、東洋的な思惟[8]や仏教思想[9]に親近性があると思う。われわれは、「ハーバード」のリーダーシッププログラムで使われる米国や西欧の例ではなく、われわれに身近な例やケースを集めて、確固たる方法論を築きあげていきたい[10]。われわれが世界に誇れるリーダーシップ教育を行い、世界のルールやスタンダードの形成にリーダーシップを発揮していくためには、大学の同僚[11]や学生だけではなく、リーダーシップに関心のある日本のあらゆる人々と連携し、共に学んでいく態度がもっとも大切であると考えている。


[1] 「しかし共通して、相手によって胸襟の開き加減がはっきり区別できる点が面白い。音楽家のセッションにも似て、波長の合った相手とは、気さくな肉声や驚くような裏話も飛び出してくるのだ。」日本経済新聞 2010111日(月)20面参照。
[2] 後述参照。
[3] 交渉コンペティションについては、つぎのホームページを参照。
[4] 交渉コンペティションのホームページには審査員のアンケート結果の概要が掲載されている。
[5] 授業の趣旨はつぎのブログを参照。
[6] 教員から見た授業の様子はつぎのブログを参照。http://nomurakn.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
[7] 共鳴のリーダーシップの構想(1)については次のブログ参照。
[8] 西欧的思惟は議論の積み重ねだが、日本では辛気くさいと感じられる。これに対して論語や老子などは、箴言集のようなものだ。孔子が「仁の実践は自己の努力に由来するので、他人に頼って仁を実践することなどはできない。」と言われると、優秀な弟子の顔淵は「私は愚鈍な人物ではありますが、先生の言葉を実践させて頂きたいと思います(回、不敏と雖も、請う、斯の(この)語を事とせん)」と応えるのである。しかし、筆者は東洋的思惟に体系的思惟がないとは考えないし、また、「子曰く」だけではなく西欧的な議論の習慣も必要だと思う。「東洋的思惟と西欧的思惟の対決」参照。
[9] たとえば法然上人はいかに育てられたかについて、つぎのブログ参照。
[10] このブログやTwitter http://twitter.com/nomuraknもそのような試みの1つである。また、野村美明「ARTとしてのリーダーシップ-対話による実践知の言語化」『国際公共政策研究』1411頁以下(2009)も少し学問的な第一歩である。特定非営利法人グローバルリーダーシップ・アソシエーション(GLEA)のホームページには、「リーダーシップ実践知データベース」の例が掲載されている。http://www.npo-glea.org/jigyo/db.html
[11] 大阪大学では学生のためにグローバルリーダーシッププログラムを提供しており、また異分野の教員が集まって日本に適したリーダーシップ理論と教育方法を研究している。